本土決戦の回避 今日の日本繁栄の基に
戦後70年 識者は語る(2)
東京大学名誉教授 小堀桂一郎氏に聞く(下)
――日本の敗戦が避けられなくなった時点でも、陸軍などにはなお本土決戦論が強かった。
ドイツが昭和20年5月に降伏して以降、日本の終戦に至るまで、政府の目指した最大のポイントは本土決戦を避け、敵が本土に上陸する前に戦争を停止することだった。
昭和天皇は、皇太子時代にヨーロッパ諸国を歴訪されるが、その時、第1次大戦の戦跡地を視察されている。特にフランスを訪問されたときは、ベルダン、ランス、ソンムの三つの戦跡を視察し、案内したペタン元帥など当時のフランス陸軍の第一級の将軍から詳しく説明を受けられた。それらの戦跡地視察を通し、裕仁皇太子は現代の地上戦というものがいかに凄(すさ)まじく、残酷なものであるかを認識される。その体験と沖縄での戦いの状況から、本土決戦はなんとしても避けなければならない、そうしなければ日本の将来はない、ということを堅く認識されていた。
例えば戦争末期、陸軍が長野県の松代に大本営を造って、そこにお移り願いたいと申し出たとき、昭和天皇は非常にお怒りになり、東京を動こうとされなかった。昭和天皇が松代大本営へお移りにならないのを見て、陸軍もこれは「本土決戦を避けよ」という、陛下のご意志の無言の表明であることを悟る。
昭和天皇と鈴木貫太郎首相との絶妙なコンビで本土決戦は回避される。この決断が今日の日本の繁栄の基になった。70年経ってみると、あの時の昭和天皇のご決断の尊さがよく分かる。
――昭和天皇は、東京に留(とど)まって国民と苦労をともにするという姿勢を貫かれた。
歴史上、諸外国の君主にももちろん立派な君主はいる。しかし、民と運命を共にするというご決意を示された君主は稀(まれ)だ。欧洲では敗戦国の君主はたいがい外国に亡命する。昭和天皇は最後まで東京に留まられた。
――戦後間もなく連合国軍最高司令官マッカーサー元帥との会見がある。
会見を終えたマッカーサーは本当に昭和天皇を心から尊敬するに至ったと思う。マッカーサーとしては、ロシアやドイツの皇帝から天皇という存在を類推するしかなかったが、会ってみると、実に比類を絶した御存在だった。本当に私(わたくし)というものがない。その崇高なお人柄は将軍にも分かったと思う。彼の側にも、当時の国際情勢や政治的な要請からして、日本占領という事業を無事成し遂げるため、天皇の権威を利用するという打算はあった。しかし、昭和天皇に実際に会見し、この天皇をお守りしなければならぬという心服の念が生じた。
――国民と苦楽をともにするという姿勢は、今上陛下にも受け継がれている。
例えば東日本大震災の時、自らテレビに出られて、国民に親しく語りかけ励まされた。言ってみれば玉音放送だった。まさに昭和天皇の伝統を継がれたと言える。
――戦後の日本であの時ほど、国民の心が悲しみに打ちひしがれたことはなかった。陛下のお言葉は本当にありがたかった。
皇室の御存在が日本国民にとって、何であるかということを痛切に認識する機会となった。また、これも昭和天皇のご遺志を受け継いでと思われるが、硫黄島、サイパン島、ペリリュー島など戦跡地をお訪ねになる慰霊の行幸をされている。本当にご立派だ。こういう天皇陛下を戴いている限り、国体の無窮は間違いない。
――今上陛下が、戦争を体験された世代ということも大きいのでは。
大きいと思う。戦争という非常事態で、無力な一般国民がどういう目に遭うかということをよくご存じだ。御自身の特別扱いは一切お認めにならず、同じように粗末なものを食べて過ごされたという。国民と共にありというお気持ちは、先帝陛下と全く変わらないと思う。
(聞き手・藤橋 進)