終戦の詔書 国体護持条件に堂々と停戦

戦後70年 識者は語る(1)

東京大学名誉教授 小堀桂一郎氏(上)

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 こぼり・けいいちろう 昭和8年東京生まれ。東京大学文学部独文科卒、同大学院博士課程修了。東京大学教授、明星大学教授を務める。比較文学、日本思想史専攻。著書に『宰相鈴木貫太郎』『昭和天皇とその時代』など。

 ――戦後70年を振り返ると、その出発点に、昭和天皇の「終戦の詔書」がある。これをどう理解するか。

 「終戦の詔書」の中で、昭和天皇は何を仰有りたかったか、それは同じ負けるにしても、堂々と戦いを収めよということだった。「朕ハ玆ニ國體ヲ護持シ得テ」「萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」という非常に重要な言葉がある。

 日本の戦争終結には、第二次大戦のドイツの負け方と比べ大変な違いがある。ドイツは連合国とドイツ政府との間の停戦の交渉が全く行われず、全土が連合国軍に占領され、それで戦争が終わるという形だった。これが国際法上に言う無条件降伏(デベラチオ)だ。この場合、敗戦国は戦勝国の戦後処理に対し何ら異議を唱えることができない。

 しかしポツダム宣言には、停戦条件を約7項目列記してある。これに同意した上で武力抵抗を止めるという負け方だ。だから日本の場合、決して無条件降伏ではない。

 では、その条件は何かというと、簡単に言うと日本の国体の護持を認めるということだ。国体を護持するとは、簡単に言うと天皇陛下の地位がご安泰であるということ、連合国は天皇の地位の変更を要求しないということだ。

 ポツダム宣言には「全軍の無条件降伏」という文言が一箇所出てくるが、その全軍の無条件降伏を命令しうるのは、天皇しかいない。つまり天皇の大権が認められ、天皇の勅命によって、戦争が終わったわけで、これがドイツの敗戦との非常に大きな違いだった。

 その結果は、70年経った今、まざまざと証明されている。敗戦国でありながら、戦後40年ほどで戦勝国を凌駕(りょうが)するほどの繁栄を成し遂げることができた。これも条件付き降伏ができたためだ。

 ――国体を護持し得た背景には、特攻隊や太平洋の島々での日本軍将兵の奮戦があった。

 そういうことだ。当時の日本軍兵士は国体護持の大切さをよく知っていた。戦術としての特別攻撃の実行には私も意見はあるが、とにかく国のため自分たちが捨て石になることをみな覚悟を決めての出撃だった。それを見て米軍は、本土全土が戦場になった場合、米軍にどれほどの犠牲が出るかを考え、本土決戦前に戦争を収めなければならない、そのためには国体の護持を保証するしかないという考えに至る。

 もちろん、米側にも、ドイツと同じように、日本全土を占領し無条件降伏させなければ、日本が再び力を得て立ち直った時、もう一度アメリカの脅威になるという意見もあった。しかし幸いなことに、その時、知日家の元駐日大使ジョセフ・グルーが国務長官代理で、実質的に対日外交を取り仕切っており、国体護持を認めるならば、日本は停戦に同意するだろうとの推測で、ポツダム宣言の発出となった。

 ――グルーのような日本人の心や文化を知る人物が対日外交の中心にいたことは実に幸いだった。

 やはり彼らにとって、特攻隊やこの4月に今上天皇が慰霊に訪れられたペリリュー島そしてサイパン島、硫黄島の日本兵の戦いは本当に凄(すご)かった。まさに敵の心胆を寒からしめる戦いで、米海軍のニミッツ提督もペリリュー島に玉砕した兵士の慰霊碑を建て、その碑に頌詞(しょうし)を刻ませたくらいだった。私が強調したいのは、実に悲壮な戦い方だったけれど、神風や回天の特攻はけっして、無駄な死、犬死にではなかったということだ。

 ――沖縄の戦いもあった。

 それ故に昭和天皇は、沖縄には気の毒なことをした、慰霊に訪れたいと、最後まで御訪問を願われた。それがご病気でかなわなくなった、その無念のお気持ちはどれほどであったかと思う。

 聞き手・藤橋 進