沖縄米軍基地の建設 ソ連の「国際協調」反故で
戦後70年 識者は語る(12)
沖縄県元副知事 牧野浩隆氏(上)
――戦後、沖縄に米軍基地が残った経緯は。
そもそも、米軍による沖縄攻略・軍事占領の目的は、日本本土を攻略する拠点基地とすることだった。そのため米軍は沖縄上陸直後の1945年4月1日軍政布告第一号を発し、日本政府の行政権を停止して米軍政府を樹立した。
従って、本来なら日本のポツダム宣言受諾と降伏文書の調印で、米軍政府樹立の理由は消滅したことになり、沖縄は日本本土と同じ占領政策に置かれても不思議ではなかった。
しかし、46年1月29日、連合国最高司令官は“覚書”を発して沖縄を日本の行政から分離し、日本本土とは異なった占領政策下に置くことにした。そこには二つの理由があった。一つは、日本の非軍事化・民主化など対日占領政策を遂行していくための担保、すなわち、「対日監視基地」として沖縄を確保すること。第二は、軍部が沖縄を排他的な戦略的支配権を有する海外基地として確保すべきであるとの意向を示したことである。
しかし、この措置はポツダム宣言の規定する“日本の領土決定”とは何ら関係するものではなく、事実、軍部の強い意向にもかかわらず米国政府内の同意は得られなかった。従って、明確な統治方針や予算的裏付けは存せず、沖縄は米軍自身から“忘れられた島”として放置された状態に置かれた。すなわち、米国の基地建設や沖縄の戦後復興に着手する法的根拠はなく、単に占領地域住民を飢餓などから守る最低限のガリオア援助が実施されるのみだった。こうして沖縄では、戦争が終結したにもかかわらず、日米両政府の行政的空白のまま、米軍基地だけは存続したのである。
――米国の対沖縄政策に変化が起きたのはいつ頃からか。
47年3月、マッカーサー連合国最高司令官は、日本の占領改革は所定の成果を上げたと述べ、日本との講和条約を締結し、日本を独立させる時期にきたと提唱した。それを受けて米政府は7月、日本占領を担当する極東委員会11カ国に対して対日講和に向けた準備会議の開催を呼び掛けた。
また、この会議に備えて8月5日付の「対日講和条約案」が起草された。その第1条「領土条項」は、日本の領土について「日本の領土の範囲は、本州、九州、四国、北海道の主要四島および瀬戸内海諸島、歯舞諸島、色丹、国後、択捉、五島列島、琉球諸島、伊豆諸島――とする」とした。
琉球諸島は「日本に帰属する非軍事化地域とする」ことが明確に打ち出されていた。沖縄の歴史、文化、言語、人類学などの調査がなされ、沖縄は日本の一部であるという結論に基づくものだった。
さらに重視すべきことは、こうした対日講和条約案が策定された背景には、第2次世界大戦を通じてスターリン・ソ連が確約してきた「米・ソの国際的協調」が前提にされていたことだ。もし、こうした講和条約が締結されていたならば、沖縄が日本本土から分断されて米国統治下に置かれ、莫大(ばくだい)な米軍基地が建設されることはなかっただろう。
――ソ連のスターリンが豹変(ひょうへん)したのか。
スターリンは早くも46年2月9日、資本主義体制が存在する限り、第3次世界大戦は不可避であるとその正体を露わにした。そして、確約した「国際協調論」を反故にして自国の軍事力の増強を最優先するとともに、他方では日米など資本主義諸国を弱体化する欺瞞(ぎまん)的な策を弄(ろう)することに腐心し始めた。
極東の共産勢力拡大阻止必要に
こうした老獪(ろうかい)な視点から、対日講和準備会議の開催に対してソ連は、不法に軍事占領した北方4島が講和会議の検討事項になっていること、会議の性格や拒否権が発動できない採決方式であることを理由に反対したのだ。
そのため米国はソ連に対する不信感を抱き始め、改革と民主化を目指した当初の懲罰的な対日占領政策を変更し、日本の経済復興を最優先することになった。またその一環として49年5月には軍部の主張する沖縄保有を決定したが、国際政治の動向を注視することにして講和会議の開催を見送ることにしたのだ。
こうした中で、50年6月25日、不意打ち的に朝鮮戦争が勃発した。そのため米国は、自由主義社会を守るという視点から日本の安全保障政策を重視し、沖縄の米軍基地に対する政策を変更することになったのである。
――この戦争は、北朝鮮が韓国に攻め込んだもので、中国とソ連が支援した共産主義連携による侵攻だった。
北朝鮮、中国共産党、ソ連が一緒になって起こした戦争だった。こうした武力攻撃は、明らかに国連憲章の定めた理念に反する暴挙だった。そのため国連安全保障理事会は数度にわたって決議し、北朝鮮に対して即時敵対行為を中止して撤退するよう要請した。
だが、北側はそれを無視し続けたため、米英両国は極東への共産主義勢力の拡大を阻止しなければならないとの認識が高まり、その対策に乗り出す必要に迫られた。
とりわけ日本が重視され、早期に講和条約を結んで日本を独立させ、自由主義陣営の一員として育成強化していくことが決定された。同時に、講和後の日本の安全保障の在り方が検討されるが、国務省は日本と安全保障条約を結び、これを沖縄にも適用して日本全国一体として運用すべきだと主張した。
しかし、軍部は日本共産党の武力革命を目指した不穏な動向や国内の政治状況によっては、安保条約に基づく米軍基地の使用が制約を受けることになると懸念を強調した。そのため、米国の作戦が影響されない排他的戦略基地を保有することが不可欠であるとして、沖縄を米国を主権者とする信託統治下におくことを強く要求したのだ。こうして、朝鮮戦争の勃発が契機となり、日本の安全保障に関する重要な一環として米国の沖縄に対する政策が展開されることになったのである。
――米国内の国務省と国防総省の対立があったわけだ。
国務省としては、確かに日米安保条約だけでは政情でどうひっくり返るか分からないので沖縄に排他的基地があることを認めざるを得なくなる。しかし、国務省としてはそれを認めるが、領土自体を取るのは米国自ら発した「大西洋憲章」に反してしまう。そこで、「潜在主権」という案を出して司法、立法、行政に対する一切の沖縄の統治権を取るが領土自体は残すという「潜在主権」という形にした。土地は日本のものだが地上権は米国が使うという意味だ。そこで日米関係の交渉を任されたダレスが潜在主権という案を出して講和条約を結んだ。
――当時の沖縄の基地と本土の基地の違いは。
日本の安全は日米安保に依存しているという。沖縄が本土復帰した72年以降はその考えで正しいが、それ以前は沖縄の基地に依存していたといわなければならない。日米安保に基づく国内の基地は条約内容に制約され勝手なことはできない。事前協議制があり非核三原則がある。勝手に他国を攻撃することがあってはならない。しかし、沖縄の場合は排他的戦略的基地だから何をしてもよく、基地の自由な使用が可能だった。
だから、ベトナム戦争の時は横田基地から直接ベトナムに飛べない。そうすると日本が交戦国になってしまうので、わざわざ横田基地から沖縄に来て、そこから発進する。日本国内の基地は日米安保に基づく基地で事前協議の対象になる。沖縄は講和条約3条によって潜在主権を除いて排他的支配権を取ったので、基地の機能が全然違う。それ故、沖縄が本土復帰した72年までは日本の安全保障は、沖縄基地プラスアルファの日米安全保障の国内基地だったのだ。
――72年の本土復帰交渉の際にはどういう問題になったのか。
米軍はベトナム戦争があり台湾、朝鮮の問題があったので軍部は反対する。国務省はそれを納得させるために外交的な技術を駆使する。行政的には沖縄を日本に返還するから、沖縄にも日米安保が適応されるのだ、だから沖縄の基地も日本の基地と同じになる、とした。しかし軍部は使えなくなったらどうするのかとあくまでも沖縄の返還に反対した。
そこに外交官の知恵が働いた。入手した外交文書を読み解きながら外交のすさまじさを実感した。事前協議制なので、日本政府はとんでもないことが起こったらノーと言えるが、最初からノーなら協議とは言わない。日本がイエスということもあり得るという説明に軍部は納得し沖縄は返還された。
(聞き手・早川一郎)