朝鮮戦争前に自衛権認めたマッカーサー

戦後70年 識者は語る(7)

旧陸軍第18軍参謀、元参議院議員 堀江正夫氏(1)

300-1

 ――戦後の占領期に日本は「戦力」の不保持を明記した憲法を制定したが、冷戦が本格化する中でマッカーサー連合国最高司令官の姿勢が変わった。

 昭和25(1950)年、朝鮮戦争が勃発してマッカーサーが警察予備隊の創設を命じてきた。

 戦争が終わって4年後になると中国が共産中国になり、ソ連と友好同盟を結ぶ。欧州でNATO(北大西洋条約機構)が出来たのが昭和24年。要するに、戦争の終わるまではソ連とアメリカ、自由主義陣営とが手を握っていたが、戦争が終わった途端に冷戦が始まった。こうした状況の中、米陸軍からは日本に軍備を持たすべきだという論議が出て、具体的な提案をずいぶんやっている。マッカーサーは、極東委員会のソ連のことも考慮して、初めはみなノーだったが、24年頃になると日本が小銃、重機関銃装備の武装警察を持つ必要があると言いだした。

 ――吉田首相は憲法審議の過程で「第9条第2項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したもの」だと言った。

 マッカーサーは昭和25年1月1日、恒例の日本国民への年頭声明で「日本国憲法の規定はたとえどのような理屈を並べようとも、相手側から仕掛けてきた攻撃に対する自己防衛の侵し難い権利を全面的に否定したものとは絶対に解釈できない」と言っている。吉田総理も同23日、通常国会の施政方針演説で「戦争放棄に徹することは、決して自衛権の放棄を意味するものでない」と表明したが、朝鮮戦争の勃発直前にダレス特使が来て、再軍備を要請した時はノーを貫いた。しかし朝鮮戦争の勃発で自衛力の整備が現実問題となった。ただし吉田は、27年の主権回復後に警察予備隊が保安隊に改編される時もこれは「戦力」でないと説明している。

 ――警察予備隊の創設前後の事情を具体的に。

 朝鮮戦争が起きると同時に、日本にいた米軍4個師団のうち、まず東京と関西と福岡の師団が朝鮮に行く。やがて北海道の師団も朝鮮に行くことになった。その穴をどうしても埋めなけりゃならんというので、例の指令が出た。

 初めは約7万4000人の要員を28駐屯所に分けて教育・訓練をはじめ、中隊、大隊、連隊と6期の訓練を行った。26年5月に、部隊本部(総隊総監部)と地方に4管区隊をおく部隊編成を完了した。

 ――昭和27年夏、警察予備隊から保安隊への改編期に入隊したと聞く。

 25年の創設時には公職追放外の連中が対象だった。でも、それじゃあどうにもこうにも部隊が動かないので、日本の主権回復が目前となった26年に旧軍将校(中佐以下)を指名して入隊を勧誘した。宮崎にいた僕にも26年に勧誘が来たが、当時、2カ月に1回ぐらい情報交換していた九州各県の連中と相談して、こんなものでは国を守るための組織にはならないということで、結局、1名だけまず入り、後は保留した。その連中が入って、少しずつ軍隊的な組織、訓練ができるようになった。そして27年には、特別に大佐クラスを何名か指名し要請をして入ってもらい、佐官級をたくさん入れることになった。

 僕らは27年にちゃんと試験を受けて入隊した。宮崎にいたが福岡に行って試験を受けた。試験といっても50問ほど○×式で、その後すぐ面接があった。その時は(東京・江東区の)越中島に本部があり、札幌と東京と大阪(伊丹)と福岡の管区司令部に総監がいたが、みんな警察出身だった。27年入隊組の中から一部、越中島の副部長になり、4管区の副総監クラスに配置されて、それ以外の連中は部隊で大隊長クラスになった。保安隊になったその辺りからやっと本当の教育ができるようになり、29年に自衛隊となって国防の任務が課された。

(聞き手・武田滋樹)

 ほりえ・まさお 大正4(1915)年、新潟県生まれ。陸軍士官学校卒業、中国戦線の戦功で金鵄(きんし)勲章。陸軍大学校卒業後、ニューギニアに派遣され、第18軍参謀(陸軍少佐)で終戦。昭和27年、警察予備隊入隊。保安隊を経て陸上自衛隊で西部方面総監(陸将)。退官後、自民党から参議院議員2期。日本郷友連盟名誉会長。英霊にこたえる会名誉会長。著書に「日本の防衛私はこう考える」など。