予備のない日本の防衛力

戦後70年 識者は語る(8)

旧陸軍第18軍参謀、元参議院議員 堀江正夫氏(2)

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 ――昭和27(1952)年夏の入隊後、どんな活動をしたのか。

 入隊して(神奈川県横須賀市の)久里浜でオリエンテーションの教育を受けて、すぐ越中島の本部の第3部、防衛作戦関係の本部の警備班に配属になった。当時は3部が警備、部隊編制、教育訓練の関係をみな持っていた。林敬三総隊総監をはじめ、各部のトップはみな警察出身だったが、3部だけが陸軍大学を出た旧陸軍軍人が部長だった。

 警察予備隊は昭和27年10月に保安隊に改編され、29年7月の自衛隊設立により陸上自衛隊となった。だから僕の階級はわずかの間に三等警察正から三等保安正、それから三等陸佐と変わった。30年暮れに二等陸佐となって当時の防衛の最重点地域だった北海道に移動したが、その間、航空自衛隊創設に当たり、その支援のため何もないところで机や鉛筆、紙まで用意してやったことを覚えている。

 保安隊は11万体制づくりを進めていたが、当時、日本の防衛のために必要な陸上兵力はどのくらいかの研究も盛んだった。我々が出した数は32万ぐらい。米軍もだいたいそのくらいだったが、結局、28年の池田・ロバートソン会談で日本側の出した陸上18万(池田私案)が当面の目標ということになった。しかし実際にはなかなか増員できず、やっと18万が認められたのが昭和49年、僕が自衛隊を辞めた明くる年だった。

 ――自衛隊の存在自体に対する風当たりも強かった。

 当時は経済復興が最優先で、その後の政治の流れも岸信介元総理の時を除いてだいたい経済優先思想で自民党がずーっと来た。だから防衛力の増加については一貫して抑制策を取ってきた。例えば弾薬でも、備蓄を持たなければ、戦闘があって装備分を撃ち尽くしたら補充がないということで困るが、その弾薬の備蓄もない。なかなか認められない。陸海空とも装備品は国内開発か米軍から買うことになっているが、慢性的にその数量が少ない。今でもパレードに出る装備品は世界一流だ。けれども、それと同じものが部隊に全部装備されているかといえば、必ずしもそうではない。

 人員も平成の初めに定員を減らした。冷戦が終結し、将来、若者の人口も減るので、機動力の強い装備によって戦闘力を落とさず、むしろ機動的な能力を強い部隊にしようという発想だ。陸自の場合は現在、定員が15万そこそこで、実際の兵員は14万を切っている。それなのに、国際協力も追加され、任務は非常に過重になっている。

 ――そういう厳しい状況をどうやって克服しようとしているのか

 昭和36(1961)年に管区隊が廃止されて師団制が採用され、5方面隊、13個師団体制をつくるため、僕らも一生懸命努力した。定員18万の枠内でつくらないといけないから当時、定員1万1000名くらいの甲師団と、5、6千名の乙師団というものを作った。今は師団を九つにする代わりに旅団を五つにして戦力を落とさないよう努力している。また、冷戦時代は北海道防衛に重点を置いていたが、今は沖縄方面の南西正面重視ということで、新聞にも出ている水陸両用の連隊をつくったり、いろいろやりくりしながら対応の態勢を取っているというのが現状だ。

 今、海上自衛隊は艦艇数でいうと世界で5番目、航空自衛隊は作戦機数でいうと世界で20位、陸上自衛隊は30位くらい。日本の防衛力で一番心配なのは予備がないことだ。第一線の部隊が消耗したら、あとしっかりと補完をするだけの予備の人、物、それを本当に準備しておかなければ、いざという時に大変な問題になる。そうなって初めて造ろうったって、できない。アメリカから送ってもらおうたって、もらえない。その辺も将来のことを総合的に考えると、しっかりとしておかなければいけない。

(聞き手・武田滋樹)