9条と集団的自衛権 平和に寄与する双務性の勧め
詳解 集団的自衛権 安保法制案の合憲性(12)
日本大学名誉教授 小林宏晨

自衛権への直接的言及は、日本国憲法の前文にも、また9条に見られない。しかし1970年代に、政府解釈は「集団的自衛権に限って、日本国がこの権利を保有するが、憲法の趣旨からして適用不可能である」との説明を行った。
筆者は、この政府説明が不合理であり、国際政治の現状に合致しない旨を既に古くから主張してきた。従って昨年の閣議決定が、集団的自衛権を限定された形ではあっても適用可能との結論には賛同する。
世界平和(平和主義)は、他国の安全と同時に自国の安全を度外視しては考察され得ない。世界平和の思想は、その意味で独善的一国平和主義を排除する。
わが国の軍事的安全の要としては、自衛隊、日米安保条約に基づく日米軍事協力、国連による集団的安全保障体制の強化―が挙げられる。いずれの場合も「双務性」の原則の適用なくしては、一朝有事の際にその機能がおぼつかない。
つまり自衛隊においては平時からその社会的地位(そして憲法的地位)を承認すること、日米軍事協力では片務的ではなく集団的自衛権の適用を含む双務性の確認、国連においてはその平和維持活動への自衛隊の参加を含めた国家の積極的参加が緊急かつ重要な課題だ。これら全ての課題は、憲法の前文と9条の解釈に密接に関連している。
この双務性に反対する論拠として古くから持ち出されてきた、いわゆる「巻き込まれ論」は、既に岸内閣時代の安保改定以来延々と続けられた証明不可能な荒唐無稽なる主張だ。この主張に対してはより現実的な「抑止」理論の対置が可能だ。つまり抑止が機能している限り、「巻き込まれ事態」が発生する蓋然(がいぜん)性が低いという論理である。
憲法解釈にあたって二つの基本的前提を確認する。第一は、憲法制定権者とは誰かだ。第二は、9条の国際性を認識することだ。これを欠いた9条解釈は不完全とならざるを得ない。
あえて「憲法制定権者」を問題にする理由は、法の持つ客観的意義を理解する必要性にある。憲法の起草者がどのような意図、思考を条文に注入しようとしたかということは(例えば現行憲法制定時におけるマッカーサーやそのスタッフ)、必ずしも解釈上の決定的要因とはならない。
憲法制定権力(者)とは全国民の総体であるからだ。この場合、条文の中に入れられた憲法制定権者の客観化された意思が基準となる。しかもこの意思は固定された意思ではなく、その時代の要請に応じて変遷可能な「継続的意思」として理解される。
しかし、そこに恣意(しい)が入り込む危険が問題となる場合は、これに対し憲法制定権者がこの法を通して到達しようとしている目標が顧みられなければならない。例えば、9条または憲法全体の基調となっている究極目標は「正義の秩序を基調とした国際平和の実現」であり、その帰結として侵略戦争が全面的に禁止されている。従ってこの目標を離れての解釈は許されない。
このため憲法解釈者は規範の対象となっている経済的・社会的・政治的事情に絶えず眼を向けつつ、憲法を合目的的に解釈していくべきである。
次に9条が持つ「国際性」の認識だ。日本国憲法の特色の一つとしてその国際性が指摘される。そのことはこの条文解釈において、先ず国際法的用例が基準となるべきことを意味する。
9条の持つ概念(国際平和、戦争、武力行使、武力による威嚇、国際紛争解決の手段、陸海空軍、戦力、国の交戦権)はみな国際法的概念である。従って国際法的用例を無視した日本独自の憲法解釈は不十分の誹(そし)りを免れ得ない。