日本人が忘れてならぬソ連の蛮行
拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久
終戦後の引き揚げ船攻撃
子供や女性ら約1780人が犠牲に
日本軍は昭和20(1945)年8月15日(終戦の日)に戦闘を停止し、同時に武装解除した。その1週間前の8月8日、突如、日本にソ連は宣戦布告。ソ連軍は9日早朝から満州・樺太などへ一斉に侵攻し、終戦日から3日後の18日には千島列島の北端にある占守島にも侵攻を開始。
一方、日露戦争勝利の結果、日本の領土となった南樺太へのソ連軍の本格的な侵攻は8月10日から始まった。樺太の南西に位置する真岡を北海道上陸作戦の中継基地と考えていたソ連軍は、20日から真岡への攻撃を開始。数隻の大型軍艦で町中に艦砲射撃を行い、その後、上陸したソ連兵は山へ逃れる人びとを背後から機関銃や自動小銃で掃射し、手榴弾(しゅりゅうだん)を投げつけた。引き揚げ船へ向かう人たちにも容赦なく砲弾を浴びせた。真岡郵便局に勤務していた9人の女性電話交換手が青酸カリを飲んで服毒自殺したのもこのときだ。樺太の人たちの悲劇はこれで終わったわけではない。さらなる悲劇が待ち受けていた。
潜水艦から魚雷や銃撃
侵攻するソ連軍の攻撃から逃れるため、樺太庁長官の大津敏男は、本土(北海道側)への引き揚げ船を樺太の大泊港に緊急招集する。船の数には限りがあり、子供・女性・お年寄りを優先して乗船させることにした。
8月20日、逓信省の海底ケーブル敷設船「小笠原丸」が約1500人の引き揚げ者を乗せて大泊港を出港する。21日、北海道・稚内港で約900人は下船したが、残りの約600人は小樽港に向かう。このとき、稚内港で下船した人たちと、小樽港に向かった人たちとで運命が大きく変わった。
小笠原丸は22日午前4時20分頃、増毛沖の海上で国籍不明の潜水艦から魚雷攻撃を受け、数分で沈没してしまう。就寝中のため、ほとんどの乗船者が脱出できず船と運命を共にした。船から海に投げ出されて海面に漂いながら助けを求める人たちには、浮上してきた潜水艦から情け容赦ない機銃掃射が浴びせられた。その結果、生存者はわずか61人だった。
小笠原丸の沈没から約1時間後の午前5時13分ごろ、約3400人を乗せた特設砲艦「第2号新興丸」が留萌沖の海上で、小笠原丸と同様、国籍不明の潜水艦から魚雷攻撃を受け損傷する。さらに浮上した潜水艦から銃撃を受けたため応戦した。第2号新興丸から予想外の反撃を受けると、潜水艦は潜航してその海域から離れた。
第2号新興丸は機関室が無事だったため自力で留萌港に入港したが、船内で確認された遺体は229体。行方不明者も含めると400人近い犠牲者を出した。
小笠原丸、第2号新興丸を攻撃した国籍不明の潜水艦は午前9時52分、貨物船「泰東丸」にも攻撃を開始。泰東丸の船長は米軍が臨検のために威嚇攻撃を行ったと思い、ただちに停船し、戦時国際法に則(のっと)り「白旗」を掲げ、抵抗の意思がないことを表した。
ところが、「白旗」を無視し、潜水艦は泰東丸に砲撃や機銃掃射を繰り返したため、甲板にいた人たちは次々と命を落とし、船体も大きな損傷を受けて沈没。約670人が犠牲となった。これら一連の悲劇は「三船殉難事件」と呼ばれ、死者・行方不明者が約1780人に上り、犠牲者の慰霊碑が留萌の地に建てられている。
実行犯判明も認めぬ露
ロシアはいまだに攻撃したのがソ連の潜水艦であることを公式には認めていない。だが、ソ連海軍の記録からソ連太平洋艦隊第1潜水艦隊所属の「L12」「L19」が実行犯であることが明らかになっている。
2隻の潜水艦は8月24日に予定されていたソ連軍の北海道上陸作戦のために、上陸地点である留萌沖で偵察活動を行っていた。そこに何も知らない3隻の引き揚げ船がソ連軍の潜水艦の攻撃を受け犠牲となったのである。ちなみに、小笠原丸が長崎沖で難破したロシア客船を救助し、多くのロシア人を救ったことは、あまり知られていない。
ソ連軍の行為は「丸腰の相手と見るや、問答無用の攻撃を浴びせかける」という臆病者特有の暴虐行為そのものである。
終戦のどさくさの中で起きたソ連の蛮行を私たち日本人は記憶にとどめておくべきだ。
(はまぐち・かずひさ)






