核武装は現実的な選択肢か

元原子力委員会委員長代理 遠藤 哲也

法律・条約・外交的に問題
日本として国際的自殺行為に

遠藤 哲也

元原子力委員会委員長代理 遠藤 哲也

 広島、長崎の74年目の原爆記念日を迎え、日本国民は「核兵器のない世界」を祈っている。しかし、現実には事態は、逆行しているとさえ言える。日本国内でも、厳しい東アジアの国際情勢を踏まえて、核武装論者はいるし、そこまでいかずとも、核技術による抑止論を唱える向きもあるし、海外では、日本に疑いの目を向ける声も少なくない。だが、核武装は日本にとって現実的な政策プランとなろうか。

技術的には製造は可能

 結論を先に言えば、核弾頭の製造についても、運搬手段についても技術的には可能である。

 核弾頭については、材料である濃縮ウラン、およびプルトニウムをつくる核燃料サイクル技術を持っている。現有の原子炉級プルトニウム抽出技術を、兵器級に上げることは、技術的には可能である。運搬手段については、日本は慣性誘導、大気圏再突入技術を持つ優れたロケットを持っているので、ミサイルに転用可能である。問題は実験場所であり、国土の狭い日本で、適地を見つけるのは容易でない。しかし、最近ではコンピューターによるシミュレーションも可能との説もあるし、また、ウラン濃縮の弾頭については、実験は必ずしも不可欠ではないとの見方もある。

 このように、日本は核開発には、技術的には不可能ではないが、金と時間がかかるし、「意味のある核抑止力」のための核武装は大変なことである。技術能力があることと、実際に核兵器を作ることの間には大きな乖離(かいり)がある。

 まず、日本国憲法には、核については全く触れていない。だが、憲法第9条の政府解釈として、自衛のため専守防衛のための、最小限の武装として核兵器の保有を禁じないとの立場を1950年代から一貫して取っている。ただし、法律のレベルになると核武装は厳しく禁止されている。その要は原子力基本法(55年)であり、原子力の研究、開発および利用は平和の目的に限られており、核兵器は禁止の対象となっている。

 それでは政策レベルではどうか。「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」との非核三原則は67年以来、政府の一貫した方針であり、国会でも全会一致で決議され、いわば国是ともなっている。しかし、法令化されたものではなく、法的拘束力を持つものではない。いずれにせよ、大きな歯止めがかかっている。

 日本の核武装は対外面から厳しく制約されており、これをはねのけて、核武装に向かうことは非常に大きなリスクを伴う。マルチ面での中軸は、核拡散防止条約(NPT)であり、核武装するためには、NPTから脱退しなければならない。NPTは目下、内外から深刻な挑戦を受けているが、日本の脱退はドミノ現象を起こしかねず、いずれにせよ、体制に深刻な打撃を与えることになる。さらに、日本はNPTに従って国際原子力機関(IAEA)との間で保障措置協定を結び、全面査察を受けているが、脱退によって協定は失効する。

 2国間ベースの面では、日本は米国をはじめ多くの国と原子力協定を結んでいるが、それは平和利用を前提としており、日本が核開発を進めるとなると、協定違反になりかねない。日本の原子力活動は停止に近いことになる。

 日本の安全保障は米国の核抑止力を含む日米同盟に依存しているが、日本の核開発は、日米双方における「核の傘」に対する信憑(しんぴょう)性を著しく傷つける。米国の一部に、日本の核武装容認論があるのは確かだが、米国の大多数および主流はそうでなく、日本の核武装が、グローバルな核不拡散体制を危険にさらしかねず、アジアと近隣国が不安感を抱き、ドミノ現象を巻き起こすのではないかと懸念している。日本の核開発は、日本にとって国際的な自殺行為になりかねない。

理屈に沿う議論展開を

 日本は技術的には核武装はできないことはないが、国民の根強い反核感情は別としても、法律的にも条約的にも、また外交的にも極めて問題があり、国益に沿うものとは思わない。日本にとっては、米国の核抑止力に頼るのが最善であり、その信頼性を高めるべく努力するのが理に適っている。日本が核兵器廃絶を訴え続けていくには、情緒的な議論だけでなく、理屈に沿った議論を展開していくことが必要である。

(えんどう・てつや)