ユダヤ系兵站の黄金時代
獨協大学教授 佐藤 唯行
17~18世紀に墺独で活躍
川船の大船団造り物資搬入も
兵站(へいたん)とは戦闘部隊のために軍需品の補給などを担当する軍の後方支援集団だ。兵站を軽んじた旧日本軍と異なり、欧州の軍隊は昔からそれを重視してきた。この仕事を天職としてきたのがユダヤ人であった。古くは13世紀末の中世英国にまで起源を遡及(そきゅう)できるユダヤ系兵站。
全盛期はオーストリア(墺(おう))・ドイツにおいて17世紀後半から18世紀初めに現出する。「打倒、墺ハプスブルク家」を旗印に欧州制覇を目論(もくろ)む仏王ルイ14世の侵攻と、東方からのトルコ軍の猛攻を同時に食い止めねばならなかった墺独において、強い軍隊づくりとそれを支える兵站の強化がとりわけ急務の課題となったからだ。
同族ネットワーク駆使
 墺皇帝レオポルト1世がユダヤ人サミュエル・オッペンハイマー(1630~1703)に墺独軍の兵站を委ねたのは、まさにこのような時代背景においてであった。このオッペンハイマーこそ「黄金時代」を代表する「ユダヤ系兵站総監」に他ならなかった。彼は職業軍人出身者ではない。ユダヤ人が市民身分を獲得する近代以前、軍人への登用は法的に禁止されていたからだ。それ故、君主の超法規的措置により商人の中からふさわしい能力の持ち主が選ばれたということだ。
ユダヤ人が選ばれた理由は兵站業務が危険な汚れ仕事だったからだ。悪路や略奪だけではない。将軍たちが敗戦の責めを兵站に負わしたことも、この仕事の人気度を下げたのだ。「補給された弾薬が粗悪なため負けたのだ」という責任回避の言い訳が繰り返され、兵站総監が格好のスケープゴートにされたのだ。
けれど中傷に慣れっ子のユダヤ人はそんなことではへこたれない。悪評に打たれ強いのだ。君主への協力姿勢もユダヤ人が採用された理由だ。絶対主義国家を目指す君主にとり、封建貴族や商人貴族の非協力的態度は悩みの種であった。一方、宗教と生まれにより孤立を強いられてきたユダヤ人にとり、権力を拡大しつつあった君主は庇護(ひご)を求め、すり寄るべき相手であった。ユダヤ人こそ誰よりも君主に対して従順であったのだ。
君主が最も期待した登用理由はユダヤ人の同族ネットワークであった。オッペンハイマーは1673~79年の対仏戦争で、レオポルト1世によりライン方面派遣軍への軍需品補給を命じられたが、彼に物資を納入した業者のリストを調べると圧倒的に親族とユダヤ仲間から納品されたことが分かる。欧州各地の商業都市に張り巡らされた同族ネットワークこそ、物資調達の切り札となったわけだ。
例えば穀物や軍馬の飼料であれば、墺独より生産コストが安い大供給国ポーランドにおいて、これらの流通販売網を握る現地のユダヤ商人団との人脈が物を言ったのだ。これによりキリスト教徒の兵站責任者がまねできぬ安価な仕入れ値で調達でき、さらに納期厳守で納品できたわけだ。常識破りの奇抜な発想もユダヤ系兵站の得意業だった。
世に名高いオッペンハイマーの奇策は86年、トルコ軍に包囲されたブダペスト救援のためにドナウ川を航行する川船の大船団を建造したことだ。陸路を遮断したトルコ軍も墺軍の川船によるある程度の物資搬入作戦は予想していたが、よもやの大船団出現に対する備えは怠っていたのだ。
オッペンハイマーとその配下は、戦乱で発生したユダヤ難民救援と破壊されたユダヤ社会再建のために惜しげもなく私財をなげうつ同胞の守護者でもあった。トルコ軍に捕らわれた貧しい同胞を取り戻すため多額の身代金を支払ってもいる。また彼は負傷兵介護のための野戦病院設営にも尽力したが、「戦時利得者」という世間の悪評を変えることはできなかった。
絶対君主の出現に一役
つかの間の平和が訪れ、兵站総監の存在意義が薄れると、宮廷内の政敵による失脚工作がたびたび企てられたのだ。そして再び戦乱の気配が漂うと彼の存在は必要となり、追い落としの策謀は立ち消えとなるのだった。この繰り返しの中に身を置くユダヤ系兵站総監の地位は極めて不安定なものであったのだ。彼らの歴史的意義については、封建貴族による干渉・妨害から君主を解き放ち、絶対君主に成長させる上で大きな役割を果たしたことであろう。
(さとう・ただゆき)











