ハウスのあるホームレス
名寄市立大学教授 加藤 隆
孤独死とホテル型家族
人間関係「分離」する無縁社会
ホームレスという言葉を聞くと、どのような光景を思い浮かべるだろうか。都会の地下通路の片隅でうずくまっている寄る辺なき人々だろうか。最近ではかなり福祉環境の改善がみられ、その数も減ったようだが、それでも、今でも日本に限らず世界中の大都市でホームレスの光景を見ることができる。
ふと思うのだが、ホームレスには、「ハウスのないホームレス」と、「ハウスのあるホームレス」の2種類があるのではないか。「ハウスのないホームレス」は先述した通りである。戸外で生活する彼らにまず必要なのは、福祉環境の整備であろう。ここで取り上げたいのは、「ハウスのあるホームレス」である。つまり、家には住んでいるが、ホーム(家族の団欒(だんらん))はないという人々である。この範疇(はんちゅう)には次の三つほどのタイプがある。
一つは、高齢者を中心に孤独死を迎える人たちだ。孤独死は年々増え続けて、最近は3万人を超えている。内閣府の調査によると、65歳以上の男女の45%が孤独死を身近に感じると答えている。今後も高齢者率の上昇と相まって、さらに孤独死も増えることだろう。孤独死が悲しいのは、社会から孤立し、喜怒哀楽を共有できるような隣人関係が希薄だということにある。そして、さらに根が深いのは、青少年にも広がっていることだ。10年ほど前に経済協力開発機構(OECD)が世界各国の15歳を対象に行った調査で、孤独を感じると回答した割合が断トツに高かったのが日本の子どもだった。まさに、無縁社会が霧のように広がっているのである。無縁社会の中で、誰からも看(み)取られることなく旅立つ人たちは、「ハウスのあるホームレス」ではないだろうか。
二つは、ホテル型家族に暮らす人たちだ。彼らには外見は立派な家屋があり、子どもたちにはアメニティーの完備した部屋が用意されている。ちなみに、昭和40年代から50年代にかけて、日本では高度経済成長に乗ってマイホームブームが起こり、それとともに子ども部屋は充実することになる。やがて、彼らの生活の基盤は自分の部屋となり、そこでどのように過ごそうと、誰と電話をしようと自由であり、誰からも文句を言われないような治外法権に守られることになる。つまり、それぞれの部屋が、あたかもホテルの一室になっているのだ。何度か耳にした話だが、母親は食事の支度ができると、子どもたちにラインか電話をして食事連絡をし、その時間だけはキッチンに集まって食べることになる。しかし、用事が済むと、また快適なホテルの一室にそそくさと戻る。彼らもまた、「ハウスのあるホームレス」ではないだろうか。
三つは、霊性的な意味でのホームレスである。人間には身体と心と魂があるという感覚は、戦後のひと頃まで市井の人々が素朴な形で抱いていた確信であり、代々にわたり日常生活の中に息づいていた。しかし、現代では霊性が行方不明に陥っている。たとえ、ブランド品と肩書と財産を身に纏(まと)っていても、魂が戻るべき場所を見失っているならば、これもまた「ハウスのあるホームレス」ではないだろうか。そして、そのことを垣間見せてくれる一つの光景が、「ゼロ葬」現象である。「ゼロ葬」とは、人が亡くなると火葬場に直行し、直葬の後も火葬場に墓のことも全て任せることをいう。全国的に増加の一途だという。そのような「お手軽葬送」を支えている死生観は、人間は死んだらゼロ、死んだらお仕舞いという信念である。
さて、この三つの範疇の「ハウスのあるホームレス」に通底するキーワードは何だろうか。筆者には「分離」という言葉が浮かぶ。無縁社会に暮らす人々は、人との関係を「分離」している。学校では、人から声を掛けられたら逃げなさいと教える。あるいは、現代人の心の底には、関わることで相手からクレームや文句を言われることへの恐怖が横たわっている。必然的に、相手にも関わらないし、自分にも関わらないでほしいと人間関係の縮小再生産と「分離」が広がることになる。
ホテル型家族に暮らす人々は、そもそも部屋の壁が「分離」を促進しており、加えて、個々人が最高価値だと信奉する「快適主義とモノ主義の物差し」で判断して、そこから抜け落ちる価値を「分離」してしまう。そして今、荒漠たる光景が広がっている。
最後の霊性のホームレスは宗教の本質的な命題である。人間は心身と魂の「分離」された者であり、本然の世界から迷い出た存在だと教えている。そして、今日、「分離」がもたらす現代人のアイデンティティーの危機を目の当たりにしている。時の政府も産業界も学校も、日本を元気にというスローガンを掲げて懸命になったとしても、人間が直面している「分離」に向き合わない限り、問題の表面を糊塗(こと)して終わりになるのではないだろうか。
さて、若くして亡くなった母親が、幼い子どもたちに残した手記がある。「お母さんはいつも思います。与えられた“平野恵子”という生を尽くし終えた時、お母さんは嬉々(きき)として“いのちの故郷”へ帰ってゆくだろうと。“無量寿=いのち”とは、すなわち限りない願いの世界なのです。だから、お母さんも今まで以上にあなた達の近くに寄り添っているといえるのです」。ホームのありようを見た思いがする。
(かとう・たかし)