「いのちが、私している」の視点を

名寄市立大学教授 加藤 隆

「Be」は絶対的呼びかけ
自分中心の生き方を変えよう

加藤 隆

名寄市立大学教授 加藤

 親しい友人仲間と話をしていると、昨今の職場事情が伝わってくる。そこには何か共通項とでも言えるような風景が垣間見える。一つは、親が我が子に代わって大学にクレームをすることが多くなったこと。二つは、パソコンを相手にして仕事をする静かな職場が増えて、近くの同僚に会話ではなくメールで用件を伝えるような光景が増えていること。三つ目は、大学などは社会的にいえば専門家と呼ばれる人間が多いが、望ましい人間関係が築けない教員が増えていることだ。

 そのようなことは、変化の激しい情報化社会では大河の中のほんの少しの淀(よど)みだと決め込んで、スルーしてもよいのかもしれないが、筆者には、人間が生きていく根幹が腐敗しているサインに見えて仕方がない。キーワードは「言葉」である。3点で論じてみたい。

 第一は、自分の言葉を必要としない社会ということだ。先ほどのパソコンを相手にして仕事をする人には、人間的な喜怒哀楽の感情などは必要なく、機械を相手に機械のように淡々と情報を処理すれば事は足りる。このことで思い出されるのは、20世紀の初頭に封切られたチャップリン主演の「モダン・タイムス」だ。資本主義社会や機械文明を題材に取った作品で、労働者の個人の尊厳が失われ、機械の一部分のようになっている世の中を笑いで表現している。100年後も同様に、四六時中スマホに目を落とし、無表情で機械のように歩いている日本人が昨今は多いと感じるのは私だけだろうか。

 同じことは教育にも当てはまる。大学の1年生科目の中で、学生自身の考えや意見を求めると、時に学生は「これまで中学高校と、黙って覚えろ、余計なことは考えるな、受験生なんだからと教師に言われ続けてきた。それが、大学に入ったら、あなたの考えは何ですかと聞かれるのは本当にギャップを感じる」と言ったりする。いわゆる進学校出身の学生に多い気がする。人間は、自分の内部から湧き上がるような生きた言葉を持てないときに不安になり、「今の自分は、果たして本当の自分だろうか」と実存が揺らぐのではないだろうか。

 第二は、いのちについての視点の転換である。「私がいのちを持っている」のではなく、「いのちが、私している」という視点だ。これは、トランスパーソナル心理学の核心である。つまり、ひとつの「いのちの働き」がまずあって、それがあちらでは「花」という形、こちらでは「鳥」という形をとっている。その同じ「いのち」の働きが、今ここでは「私」という形をとっている。世間を見回すと、自己実現だの個性尊重などとミーイズムが満ち溢(あふ)れ、一見華やかで楽しげではあるが、果たして、このままで将来は大丈夫かと不安がっている人々は多い。「自分」中心の生き方から、「この人生で自分が果たすよう呼びかけられている何か」に耳を澄ますような態度こそ待たれていないだろうか。

 ところで、いのちからの呼びかけとは、言葉と深く結び付いている。いのちとは言葉ではないかと思うほどである。文科省の以前の冊子に次のような示唆に富む文章があった。「命という字は、口という字と令の字からなり、これは神や上からの指示、啓示を受けることを意味する。従って、生命は生物学的な命であるとともに、神に祈り、神から与え命じられた『天命』である」と。ここには、いのちが命令とでも言うべき絶対的な呼びかけだと指摘している。

 第三は、「Be(ある)」と「Become(なる)」についてである。先日、中国で起きた奇跡的なドキュメンタリーを見る機会があった。中国人夫婦に2人目の子供が誕生したのだが、当時中国では“一人っ子政策”が行われており、断腸の思いで市場の入り口付近に赤ん坊を置いた。そして、「願わくば、20年後の七夕の日の午前、断橋(願いが叶(かな)うことで有名な橋)の上で一目お会いすることができますように」という手紙も一緒に添えられた。その後、数奇な運命を経て、23年ぶりに断橋の上で親子は再会したが、両親に言葉はなかった。ただただ娘を抱き締めて泣くばかりだった。

 我が子が誕生したとき、我々は生れ出てくれただけで幸せに思う。その存在だけで十分に満たされているのだ。まさに、「Be(ある)」の価値に生きている。あの再会を果たした両親も、娘が生きていてくれただけで十分だったに違いない。あるいは、人生の終わりが近づいた終末期患者の喜びや平安も、やはり信頼を寄せる家族とか友人がベッドサイドにただいてくれるだけで十分ではないだろうか。ここまで深刻な状況ではなくても、悩んでいるときに友人が話に耳を傾けてくれることも「Be(ある)」の価値であろう。

 反対に、「Become(なる)」の価値は、往々にして人間的な打算が入り込みやすい。こうなることで人からどう評価されるかと人面教信者に陥ることになる。そして、現在、社会全体が人からの評価に汲々(きゅうきゅう)として自分を見失っているのではないだろうか。哲学者カントは、そのような態度のことを、自分の利益を優先する仮言命法に基づく行為と呼んで卑下した。

 そして思うのである。いのちからの呼びかけもまた、「Be(ある)」の価値ではないかと。このような視点の転換こそ、今の時代に求められていないだろうか。

(かとう・たかし)