INF条約は破綻したのか

ロシア研究家 乾 一宇

中国を念頭に置く米露
中距離核開発・配備も視野に

乾 一宇

ロシア研究家 乾 一宇

 昨年10月、トランプ米大統領は、ロシアの条約違反を理由に中距離核戦力(INF)全廃条約からの離脱を表明した。さらに12月4日、ロシアが60日以内に条約違反の状態を改善しないと、条約で定められた義務の履行を停止すると通告した。6日には、トンプソン米国務次官は、配備中の新型地上発射巡航ミサイル「9M729」の廃棄、あるいは条約違反にならないよう射程の短縮などの要求内容を明らかにした。ちなみに「9M729」は、2015年9月末シリアにロシアが軍事介入(空爆)した直後の10月、カスピ海の露艦艇からシリアのIS(自称「イスラム国」)拠点にイラン・イラクの上空を飛行して攻撃した巡航ミサイルの地上型である。

 INF条約は、1987年12月に米ソの間で署名、翌88年6月発効、米ソの中距離地上発射ミサイルを実際に全て廃棄するという当時世界を驚かせた条約であった。

 中距離という射程は500~5500㌔で、欧州戦域でソ連と西欧諸国は互いに射程内、ソ連から米国には到達しない距離である。ソ連の移動式中距離弾道ミサイルSS20(個別誘導弾頭)の配備に対抗し、当時西欧諸国は米国の同様の対応を望んだものであった。

  条約は、ミサイル廃棄のほか将来の実験、生産、保有を禁止、米ソの初めての現地査察が定められた。査察は、申告データや申告に基づく施設だけという限定されたものだが、それらの閉鎖、規定の実行などの確認のほか、ミサイルの生産施設の出入り口、現地での廃棄などについて査察する厳密なものであった。米ソ合わせて2692基を3年かけて廃棄した。廃棄後も査察団が相互に違反がないかを継続して検証し、信頼醸成に貢献した。

 条約から約30年、ソ連は崩壊・ロシアが誕生、中国が経済的、軍事的に台頭、中距離ミサイル保有国も中国、インド、パキスタン、イラン、北朝鮮など10カ国以上に増加し、戦略環境も大きく変化した。

 新生ロシアは、安全保障に抑止の概念を採り入れ、経済負担軽減から、核戦力に大きく依存するようになる。通常戦力で侵略された場合においても、危機的状況で他に手段がないときは核兵器を使用する軍事ドクトリンを公表している。

 アメリカが指摘するロシアのINF条約違反の新型地上発射巡航ミサイルの実験、配備も、戦略環境の変化に対応するものであろう。実際、2007年10月、プーチン大統領はINF条約の多国化を求め、条約外の国の短・中距離ミサイルの野放しの増大はロシアの脅威であり、条約離脱を示唆した。この頃から、ロシアの条約違反のミサイル開発、実験の疑惑が浮上している。

 アメリカは、ロシアの条約違反を非難するのみであった。だがトランプ政権は、17年末、本欄でしばしば引用する国家安全保障戦略を定め、中露を現状変更勢力と名指しした。それに基づき、昨年2月、「核態勢の見直し2018年版」(NPR2018)を発表した。従来の軍事力だけでなく、サイバー攻撃やテロ攻撃などを含むあらゆる脅威を想定、それが現実化し国家が極限的状況に陥った場合核兵器を使用すること、また対処能力を高める低出力小型核兵器を開発することを盛り込んでいる。もちろん、核抑止を重視しているが、それぞれの国に対し、脅威の各種実態に応じて核使用もあり得るという考えである。

 米露の考えの根底には、中国を含むミサイル・核兵器の拡散、サイバー攻撃やテロなどの脅威の拡大に対し、もはや米露だけの問題ではないという認識がある。

  条約からの離脱について、米露は互いに非難しているが、実際の対象は中国という面が透けて見える。ロシアは、中国と国境を接し、INFのカバー範囲にある。海外に前方展開しているアメリカ軍は、外国基地および空母を含む展開部隊が影響を受ける。

 アジアに限って見てみると、中露は、広大な国土に移動式地上発射INFを配備することは容易であり、海、空兵器とともに効果的かつ経済的にも有用である。

 アメリカにとって、アジア正面ではいろいろの問題がある。朝鮮半島では核排除の方向にあり、韓国へのさらなる配備は困難である。フィリピンには政治的に難しい。グアムは地勢狭隘(きょうあい)である。日本は地形的には配備容易であるが、世論が問題であり、非核三原則もある。つまりINF兵器よりも、海軍、空軍の同様兵器の方が使い勝手がよいだろう。

 米中の経済対立の安全保障面への波及の一側面が今回の米国のINF条約離脱なのだろうか。ロシアはアメリカの離脱を非難しているが、内心では歓迎しているのかもしれない。米露は、ミサイル・核軍縮交渉に応じそうもない中国をはじめ、他の核保有国への対処としてのINF兵器の開発、配備を視野に入れていることは間違いない。ミサイル・核保有国の増加とともに新た問題が出てきているのである。

(いぬい・いちう)