戦没者慰霊に携わる若者たち
バシー海峡望む寺で鎮魂
台湾人救った警部の墓参も
本年も8月15日には恒例の全国戦没者追悼式が開催される。周知のように全国戦没者追悼式は、過ぐる第2次世界大戦で戦死した旧日本軍軍人・軍属約230万人と、空襲や原爆投下等で死亡した一般市民約80万人の、日本人戦没者計約310万人の御霊安らかならん願いを込めた、国家を挙げた慰霊祭である。
現天皇・皇后両陛下はご即位後、戦争の記憶の風化に危機感を抱かれ、戦争の悲劇を忘れぬためと慰霊の旅を重ねてこられた。両陛下の「戦没者慰霊の旅」は、1994年2月硫黄島から始まる。戦後60周年の2005年6月は玉砕した島・米自治領サイパンを訪問された。続けて太平洋戦争の激戦地となったパラオ、フィリピンなどに80歳を超えるご高齢で両陛下は足を伸ばされている。まさに心打たれる象徴天皇のご慰霊行脚であり、わが国の文化、良き風習を誇りたい思いである。
それでも両陛下が、政治的制約の中で、慰霊行脚できなかった場所があることに最近、気付かされた。それはバシー海峡を望む台湾最南端の地である。バシー海峡は、戦時中は南方戦線への軍隊輸送や補給物資輸送の主要航路帯で、ここを往来する日本船舶は当時の米潜水艦によって格好の攻撃目標とされ「輸送船の墓場」とまで言われていた。この海峡で戦没された御霊は10~26万人とも言われ、多くはなお深海に眠っておられる。
戦後70年を記念してバシー海峡を望む岬に立つ潮音寺でご遺族によって慰霊祭が行われたことを最近知った。その状況はNHKによってカメラに収められ、15年8月3日に放映されていた。その画像を見て、筆者は大きな感動と驚きを禁じ得なかった。バシー海峡戦没者慰霊祭のホームページ(http://bashi-channel.com/)で同実行委員会副委員長・舘量子さんの名前を見つけ、現代若者へのイメージを改めさせられた。彼女こそ十数年前に筆者が拓殖大学教授時代のわがゼミナールに所属した学生で、何事にも真摯(しんし)に取り組み、闊達(かったつ)にリーダーシップを発揮していた頃の面影が重なる。
台湾の南端の岬には九死に一生を得た故中嶋秀次氏が私財を投じて亡き戦友のために建立された潮音寺があり、そこを舞台に日本の遺族の方など200人が国家政府の支援もなく集まっての慰霊祭が行われていた。潮音寺は台湾の高齢の鍾ご夫妻の善意と私費で守られており、日中台関係には微妙な政治問題があるが人道的観点から潮音寺の維持管理や慰霊行事に日本国家として支援など関与はできないものか、真剣に検討すべき課題である。
この件関連で舘さんの私事にわたって恐縮であるが、彼女は大学卒業後陸上自衛隊に入り、2年の任期間に日本語教師の資格を取って台湾に渡り、高雄市を中心に日本語教師として活躍してきた。台湾の若者に日本語を教える傍ら、古き良き日本統治時代を経験した高齢者との交流で感化を受け、幅広いボランティア活動に取り組み、まさに親善大使的な活動を重ねてきた。なお熱き心をもって散華された御霊を慰めるボランティア活動に飛び込んだ、台湾の地で自己犠牲を厭(いと)わない教え子の奉仕活動に教えられた思いで、一服の清涼剤をいただいた思いであった。
実は舘さんと台湾との結び付きは、拓大時代に「台湾はどこに向かうか」をテーマに茅原ゼミが2週間の台湾合宿を実施したことに起因する。李登輝元総統はじめ政軍経各界のリーダーたちのお話を聞いて回り、アンケート調査をするなどの活動を通じて参加学生は皆、台湾ファンになっていったが、館さんはその代表的な一人であった。ちなみにこの刺激的な台湾合宿の成果を『若者の目に映った台湾』(芦書房、03年)として出版したが、舘さんともう一人の男子学生が中核となって刊行にこぎ着けてくれた。そのもう一人の星野友秀君のことも紹介しておきたい。
星野君は、合宿中に台湾で廣枝音右衛門警部の故事を発見し、その解明に尽力した。廣枝警部は、台湾警察育成のために日本から派遣された警察幹部であったが、第2次世界大戦末期に、台湾の若者2000人を指揮してフィリピンに渡り銃後の治安維持に当たらされていた。米軍の反攻に際して死守・玉砕を命じられたものの、台湾の若者に「生きて台湾に帰り、台湾の復興に尽くすよう」諭して任を解き、自らが盾となって逃がしたという話を明らかにした。
その後、ポツダム宣言受諾後の激動時代を経たが、台湾に生還した劉維添氏など廣枝警部の部下たちは獅頭山勧化堂に位牌を祭り、廣枝警部を神として毎年秋には慰霊祭を行い、一部有志は訪日し、ご遺族が住む取手のお墓に詣でるなどと美談は続くが、星野君はこれらの行動も手伝い、自らも墓参を繰り返している。そして星野君自身も感化を受けたのか、現在、神奈川県警で警察官として勤務している。
戦没者慰霊に関連して筆者にまつわる2人の若者を紹介したが、筆者など年配者はややもすると「近頃の若者は…」と嘆きがちであるが、見てきたような若い日本人がいる限りまだまだこの国は大丈夫だとの力強さと安堵(あんど)感を抱くことができた夏であった。お盆に当たり戦没者に追悼の念を奉じるとともに、今後2人のような若者がますます育ち、増えることを期待するものである。
(かやはら・いくお)






