「必要な時に必要なことができる国家」へ

櫻田 淳

東洋学園大学教授 櫻田 淳

 8月15日時点では、現下の新型コロナ・パンデミック(世界的大流行)第5波には、収束の気配が観(み)えない。政府の緊急事態宣言は、8月末までのものが、さらに延長されるという観測が伝わっている。

国民の気概・技量恃み

 政府の対応が国民に対する「お願い」を下地にしたものである限り、それに応ずる機運は明らかに萎(な)えている。政府の対応は、結局のところ、国民の気概、技量、公徳といったものを恃(たの)みにするものであったからである。

 しかし、その技量、公徳といったものを過度に恃みにする一方で、そうした本来ならば称揚されるべき「ヒューマン・ファクター」を当てにしない社会システムの構築に不得手である日本の事情は、明治以来、さほど変わっていないらしい。

 司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』にも、日露戦争時、ロシア・バルチック艦隊を迎え撃とうとした東郷平八郎提督麾下の連合艦隊が、「十発十中」を目指した猛訓練に及ぶ光景が書かれてあった。それが暗示するのは、装備の劣勢ですら、属人的な努力によって覆されるという発想である。

 第2次世界大戦中も、初期の零戦の優位を支えたのは、練度の高いパイロットの存在であった。しかし、戦局が進み、そうした熟練パイロットが失われるにつれて、零戦の優位は、グラマンF6Fに移っていった。グラマンF6Fは、機体整備を含めて、「誰にも使える」というタイプの戦闘機であった。

 当代日本も、人々の気概、技量、公徳といったものを恃みにできなくなっている時点で、パンデミック下の難局への対応が難しくなっている。そうしたものを当てにしない社会システム、すなわち有事法制の構築に乗り出すべき瞬間は、この一年に幾度も訪れていたはずであるけれども、それを逸して、現状のような体たらくになっている。

 故に、こうしたシステムの構築に敢然と乗り出せなかった政府・自民党、政府の施策には取りあえず反対する野党、そして有事対応の議論をきちんとすべき時にしようとしなかったメディアを含む「知の世界」の責任は、大きいといえる。

 「主権とは、緊急事態における決断のことである」と語ったのは、カール・シュミットであった。昨年来、日本では幾度も緊急事態宣言が発出された。ただし、その緊急事態宣言と呼ばれるものは、大方、カール・シュミットが想定したものとは程遠い「もどき」の類いではなかったか。

 国家の役割は、「普段は鬱陶(うっとう)しいものであってはならないが、有事には敢然と必要なことができる」というものでなければならない。しかし、現状は、「普段は鬱陶しいが、有事には必要なことができない」というものになっている。

 民主主義国家の要諦は、「国家の役割は、普段は鬱陶しいものであってはならない」という点にあるけれども、それでも、有事には必要なことができなければならないのである。その故にこそ、米国や西欧諸国には、真っ当な緊急事態対応の法的枠組みが整備されているのである。

根底的な議論を怠る

 その意味を了解せず、戦時中の記憶に呪縛(じゅばく)されて、人々に「鬱陶しい思い」をさせる一切の政策対応を避けようとしたのが、戦後日本の来歴である。このことは、1990年代以降、オウム真理教事件、阪神淡路大震災、あるいは東日本大震災の際に、幾度も提起されてきたことであった。そうした根底的な議論を「喉元過ぎれば熱さ忘れる」とばかり怠ってきたのが、現状の苦境に反映されている。

 このような情勢が続く限り、現下のパンデミックが去った後、別の有事が到来した際にも、同じような風景が繰り返されるのであろう。それは、日本の「宿痾(しゅくあ)」と呼ぶべきものである。

(さくらだ・じゅん)