尖閣防衛とフォークランド紛争の教訓
東洋大学現代社会総合研究所研究員 西川 佳秀
最悪の事態想定し対策を
同盟国への過度の期待は禁物
尖閣諸島周辺海域には連日、中国の公船が押し寄せ緊張が高まっているが、今から約40年前のこの時期、南大西洋では英国とアルゼンチンの間でフォークランド諸島の領有をめぐり大規模な武力衝突が発生した。尖閣諸島の防衛を考える上で、日本はこの紛争から貴重な教訓を学び取ることができる。
英国に油断と思い込み
アルゼンチン沖合のフォークランド諸島は、1833年以降、英国が領有、実効支配していたが、アルゼンチンも領有権を主張し対立が続いていた。82年4月2日、アルゼンチンのガルチェリ軍事政権は同諸島に4000人の部隊を上陸させ、英総督と海兵隊員を捕虜にし、一方的に自国領と宣言した。英国は武力による現状変更に強く反発しつつも、隙を突かれたこともあり、当初は交渉による解決を模索した。同盟国アメリカの支援を英国は期待したが、当時のレーガン政権は反共政策を進める上でアルゼンチンと友好関係にあり、仲介には動いたが中立の立場を崩さなかった。
英国は国連安保理にアルゼンチンの侵略行為を提訴するが、アルゼンチン軍が早期に諸島を制圧し占領を既成事実化したため、英国は国連憲章51条に基づく自衛権の行使が認められなかった。同盟国を頼れず、自衛権行使も封じられ、さらに対アルゼンチン経済制裁に加わる国も英国の予想を下回り、サッチャー政権は追い詰められた。一度奪われると、たとえ領有の正当性があっても奪還は至難であること、また国際機関や同盟国への過度な期待は禁物であることを、この史例は日本に教えてくれる。
この時期アルゼンチンが突然実力行使に出たのはなぜか。同諸島沖に海底油田の存在が報じられたこと、翌年に退役となるガルチェリが政権延命を図るため政治的な功績を急いでいたこと、さらに激しいインフレや相次ぐ政争に対する民衆の不満を外に向け愛国主義を煽(あお)る必要に迫られたためであった。尖閣海域での海底資源の存在に加え、独裁の長期化をめざす習近平が手柄を欲しており、さらに貧富の拡大や圧政に対する不満解消の必要が高まっていることなど、今の中国が当時のアルゼンチンと似た環境にある点が気掛かりだ。
アルゼンチンに領土を奪われたことで、サッチャー政権には世論の批判が集中し、支持率は急落した。英国がアルゼンチンの動向を注視し不穏な動きを読み取っていれば、迅速な対処も可能だった。それにもかかわらず領土の奪取を許したのは、まさか実力行使には出ないだろうとの油断、思い込みがあったためだ。
後に国家安全保障担当大統領補佐官などを務めたハーバード大学のキッシンジャーは、国際政治では“never say never”(「決して~ないとは決して言うな」)と教えたが、考え得る最悪の事態を想定して万全の対策を講じておくのが危機管理の要諦である。たびたび中国公船に領海への侵入を許しながら、日本政府は「遺憾の意」と抗議を繰り返すだけだが、「まさか尖閣に上陸はすまい」との楽観論や思い込みに陥ってはいないだろうか。日本が英国と同じ轍(てつ)を踏まぬためには、平素から十分な早期警戒体制を敷く必要もある。
平和的な解決を目指し仲介に動いた米国務長官ヘイグは、島の領有権と居住権を分けるなど一国二制度に似た案を両国に提示した。だがサッチャーは、武力で領土を強奪したアルゼンチンを許さず、英主権の完全回復を主張し、それに制約を課す妥協案には最後まで同意しなかった。結局アメリカの仲介は失敗に終わる。
流れ変えた首相の決断
交渉が決裂し、自らの手で島を奪還せんと決意したサッチャーは、世界が驚く中、英本国から遥(はる)か1万3000㌔南のフォークランド諸島に向けて100隻余の大艦隊を送り込んだ。当初アルゼンチンの突然の軍事行動に英国は驚愕(きょうがく)したが、無謀とも思えるこの決断に今度はアルゼンチンが動揺した。英国民は熱烈な支持でサッチャーに応え、政府による民間船や船員の徴用等に協力した。「不当な侵略を許さず自国領奪還のためには戦争も辞さず」のサッチャーの固い意志と決断力が事態の流れを変えたのだ。
派遣部隊は82年5月初旬、アルゼンチン海空軍との戦闘に突入。さらにフォークランド諸島に上陸した英国軍は激しい地上戦闘を展開、6月14日ついにアルゼンチン軍は降伏。英国は実力で同諸島の奪還に成功する。指導者の決断力と国民の領土固持の熱き思いがもたらした勝利であった。この戦訓は、遠隔の小島、しかも奪還は至難と諦観に囚(とら)われたら領土の保持など叶(かな)わぬことを日本に諭している。(敬称略)
(にしかわ・よしみつ)






