白人支配の打破に挑戦した日本
拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久
人種差別撤廃、初めて提案
パリ講和会議、米英反対し否決
大正8(1919)年2月13日、第1次世界大戦後のパリ講和会議国際連盟規約委員会において、日本全権である牧野伸顕(元外相)は、連盟規約に人種差別撤廃を盛り込むことを提案する。日本がパリ講和会議で設立が予定されている国際連盟規約の中に、人種差別撤廃条項を盛り込もうとした趣旨は、連盟が国際平和・協力機構として十分にその機能を発揮するには、人種平等の原則の確立が必要であるという点にあった。
日本は第1次世界大戦には、連合国の一員として、東アジア、オセアニア、地中海などの軍事作戦に参加した。パリ講和会議では、米・英・仏・伊とともに、いわゆる「五大国」のメンバーとして、最高委員会の構成国となる。
構成国は米国大統領のウィルソン、英国首相のロイド・ジョージ、フランス首相のクレマンソー、イタリア首相のオルランドなど、いずれも最高首脳を送りこんでいた。これに対する日本全権団は、牧野と西園寺公望(元首相・元老)、珍田捨巳(駐英大使)、松井慶四郎(駐仏大使)、伊集院彦吉(駐伊大使)の5人で、首席は西園寺であった。しかし、西園寺は健康状態が万全ではなく、全権団を率いて東奔西走したのは次席全権大使として参加した牧野であり、随行員には近衛文麿や吉田茂などがいた。
日本の主張認められず
牧野は明治維新の三傑の一人である大久保利通の次男で、明治4(1871)年、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米。外交官としての欧州駐在も長く、日本屈指の国際派の一人であった。
パリ講和会議において、牧野は白人主義の現実を改めて痛感することになる。当初、日本の人種差別撤廃提案に対して、多くの植民地を有する国々が反対に回ったからだ。
そこで日本は、大正8年4月11日、国際連盟規約委員会の最終日、連盟規約の前文中に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」という一節を挿入することを提案する。国際会議において、人種差別撤廃を明確に主張した世界で最初の国が日本であった。
日本の再提案は多くの国の支持を得る。会議に参加していた16カ国のうち、フランスとイタリアを含む11カ国が賛成したため、賛成多数で可決されると日本全権団は確信していた。ところが、米国と英国は依然として反対した。議長のウィルソンが、それまでの全ての議題が多数決で採決されていたにもかかわらず、「重要事項の決定は全会一致、少なくとも反対なしであることを必要とする」という原則を持ち出し、日本の再提案は否決された。こうして人種差別撤廃は葬り去られたのである。
4月28日の全体会議における連盟規約の決定に際して、牧野は日本案の否決を遺憾とし、将来なお実現の努力を継続することを表明する。そして、日本案と陳述の内容を議事録に留めるように求めることで、矛を収めざるを得なかった。
結局、国際連盟の本質は、人種差別を前提とした白色人種だけの国益調整機関にすぎなかったのである。ウィルソンは14カ条の平和原則を発表し、「民族自決主義」を唱えていたが、「民族」とは白色人種だけを意味しており、有色人種には「民族自決主義」は適用されないということを、白人自らが認めたことになる。
人種差別撤廃案はパリ講和会議で否決されたが、日本が世界で最初に人種差別撤廃を提案したという歴史的事実は、国際社会や日本外交に一定の刻印を残した。日本は日独伊三国同盟後も、ナチスドイツのユダヤ人排斥には同調せず、人種差別的な主張と政策には反対の姿勢を貫き通した。
大東亜戦争中の昭和18(1943)年、東京で開かれた大東亜会議における大東亜宣言は、パリ講和会議で否決された「人種差別撤廃」が盛り込まれている。
新興独立国が日本支持
日本は大東亜戦争には敗れたが、戦後、国際連合に加盟し安全保障理事会の非常任理事国に初めて当選した際に、新興独立国から多くの支持を集めた。大東亜戦争は人種差別に対する日本の挑戦でもあったのである。
(はまぐち・かずひさ)











