「北京2022」への対応を考える秋

東洋学園大学教授 櫻田 淳

体制擁護に使われる五輪
「西方世界」と協調すべき日本

櫻田 淳

東洋学園大学教授 櫻田 淳

 新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)最中、森喜朗TOCOG(東京オリンピック・パラリンピック組織委員会)会長の辞任の顛末(てんまつ)は、「東京2020」と通称されてきた催事に寄せる国民各層の熱気を一層、萎えさせることになるであろう。

 しかし、国際政治上、日本にとって重要なのは、「東京2020」の開催と運営を首尾よく進められるかというよりも、その半年後に予定される「北京2022」(北京冬季オリンピック・パラリンピック)への対応の判断であろう。

ジェノサイド進む中国

 AFP通信記事(日本語電子版、3月1日配信)に拠(よ)れば、ニッキー・ヘイリー(ドナルド・トランプ前政権時、米国国連大使)は、2月28日のツイッター上に、「2022年北京冬季五輪はボイコットすべきだ。選手にとっては大きな損失だが、それと中国で起こっているジェノサイド(大量虐殺)、また中国に力を与えた場合、この先に待ち受けるであろう、さらに恐ろしい出来事とをはかりにかけて考えなくてはならない」と書き込んだ。

 ヘイリーに限らず、米国連邦議会上下両院では、共和党議員を中心にして「北京2022」への参加拒否や「北京2022」それ自体の開催地変更を求める動きが、浮かび上がっている。

 こうした「北京2022」への厳しい視線に反映されているのは、中国共産党政府が新疆ウイグル自治区で進めてきたウイグル族迫害が、続々と「ジェノサイド」として語られるようなっている事情である。

中国共産党政府による「ジェノサイド」を糾弾する動きが今後、特に米豪加各国や西欧諸国のような「西方世界」諸国に普(あまね)く拡(ひろ)がっていくのであろうとは、当然のように予測できる。実際、米国政府に続き、オランダ・カナダ両国議会が「ジェノサイド」認定決議を相次いで採択している。

 このような趨勢(すうせい)の下では、「ジェノサイド」が進む中国で開かれる「北京2022」に敢(あ)えて選手団を送り込むことの意味が、問われることになるであろう。

 故に、「北京2022」への対応は、前にも書いたように、日本にとって覚悟を伴った一つの選択を迫ることになるであろう。その際に示される選択肢は、地勢上の「隣邦」であり、歴史上の「縁」も深い中国との友誼(ゆうぎ)であるか、あるいは自由、民主主義、法の支配といったさまざまな価値意識を共有する「西方世界」諸国との協調であるかの二つである。そして、日本が「北京2022」への対応に際して採るべきは、「西方世界」諸国との協調でしかない。

 そもそも、IOC(国際オリンピック委員会)は何故、2000年以降、僅(わず)かの間に2度も「オリンピック憲章上、資格に疑義のある権威主義国家」の首都にて、催事を開くと決したのか。それは、現下のIOCにあって、権威主義国家が自らの体制擁護に催事を利用した「ベルリン1936」や「モスクワ1980」の教訓が活(い)かされていないということの証左ではないのか。

 この事情が示唆するIOCの無定見こそは、実は「東京2020」に対しても、冷ややかな視線を投げ掛けざるを得ない所以(ゆえん)である。「東京2020」には、「東京1964」に際して語られたような牧歌的な趣を感じ取ることは、既に難しい。

毎回アテネでの開催に

 オリンピック・パラリンピックという催事は今後、古代オリンピックの故事に倣って、アテネで4年毎に開催するというもので宜(よろ)しいのではないか。アテネから遠く隔たった地で開かれることになっている「東京2020」と「北京2022」という二つの催事は、もはや「平穏」の2文字で語るのが覚束なくなっているけれども、その後に「オリンピックとは何か」を再考する契機になれば、それ自体に幾許(いくばく)かの意義が帯びるであろう。

 オリンピックが招致や開催に際しての政治思惑や経済打算から離れて純然たる「スポーツと平和の祭典」としての原像に回帰するのであれば、その舞台はアテネに戻すのが相応(ふさわ)しいのではないか。(敬称略)

(さくらだ・じゅん)