人生の来し方行く末を思う
名寄市立大学教授 加藤 隆
「命」に命令と使命の意味
人間の計らい超えた不思議さ
人生の来し方行く末を思うとき、人間の計らいを超えた不思議さにこころ打たれる。自分がこの世に生まれ落ちた不思議さ。人類史の悠久の時間の中で昭和に呼び出され、生成消滅の国々が真砂(まさご)のようにある中で日本の北海道に呼び出され、あまたの血族ある中で加藤という家系に連なる両親に呼び出され、このような性と姿を有して私の人生が始まった。
三つの宿命背負う人間
そこに、本人の意志が関与する余地はまったくない。同じように、この世を去る時もまた不思議さにこころ打たれる。どの人間も宿命として背負っている三つの真実。「人生は一度限りである」「人は必ず死ぬ」「いつ死ぬか分からない」。そこにも、人間の意志が関与する余地はない。こう見てくると、いのちの始まりと終わりは、人間の意志が触れることを許されない厳粛さ、不可思議さ、大いなる導きを思うのである。
我々は今一度、この生と死の厳粛なる事実に正対して、そこから人生を考え直すべきではないだろうか。東京都が行った小中学生意識調査の中で、「人間は死んでも生き返る」と考える子どもたちが少なくなかったという。ゲーム感覚で、一度死んでもリセットすれば生き返るというバーチャルルールが、人間にも応用できると考えているのだろうか。あまりにも死のリアリティーの体験(「人生は一度限りである」「人は必ず死ぬ」「いつ死ぬか分からない」)が少な過ぎるのではないだろうか。
あるいは、iPS細胞による再生医療が発展した暁には、人は死なない身体を持ち得るとでも期待しているのだろうか。魚や野菜は金を払って手に入れる商品と認識するほどに自然体験が乏しく、非難されることを恐れて人と関わることを遠ざける人間関係の希薄さ。その結果、人間から五感を喪失させ、生きがいを消し去り、人生の来し方行く末の根底にある厳粛さや不可思議さを覆い隠して、無重力状態で漂っているのではないだろうか。
ところで、第二次大戦下に強制収容所を体験した人に、精神科医V・フランクルがいる。収容所から解放された翌年に彼が書き下ろした『夜と霧』は、今もなお多くの人々に語り継がれている。そのような特異な経験をしたフランクルであるが、興味深いことに彼の人生観は我々の常識を180度転換させている。こんなエピソードが残っている。
収容所で自殺願望の仲間二人がフランクルのもとを尋ねてきた。極限の収容所生活の中で希望を喪失してしまった彼らは、「もうこの人生に期待できることはない」と伝える。ややあって、フランクルは二人に尋ねる。「何処(どこ)かに、あなたを待ち続けている人がいませんか」「何か、あなたが成し遂げることを待っている仕事がありませんか」と。
すると、一人の男性は少し考えたあとで、アメリカに住んでいる娘が自分を待っていることに気づいた。もう一人の科学者も、シリーズの著作のいくつかが未刊であり、完成することが待たれていることを思い出した。こうして、彼らは自殺願望から解放され、自分が実現するように期待されている使命や役割に気づくのである。
フランクルは言う。我々の方が人生に向かって「この人生に期待できることはない」と問うのではなく、逆に、人生の方がこの私に期待しているのだ、私は人生から問われている存在なのだと。
さて、生と死を貫く中心軸に「命」という言葉がある。よく吟味すると、この言葉には深い意味が込められている。一つは、命は「命令」であることだ。「命令」ということは絶対的な強制力を伴う。旧約聖書の「土のちりで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込んだ」というとき、それは単に物理的な意味で息を吹き入れたというよりも、神から命令としての天命を授かったということではないだろうか。ここでも「問われている存在」が浮き彫りになる。
「命」のもう一つの意味は、「使命」ということである。命を使うと書いて使命という。置かれた場所で咲きなさいという言葉があるが、自分に託された居場所でその役割を担って生きること、それが使命である。結局のところ、人間は「使命」を見いだして生きるときにだけ、自己の実存に平和が訪れるのではないだろうか。
死生観に基づく哲学を
今日、皮相的な文化がはびこり、死生観に基づく哲学を語る教育者や政治家が少ない気がする。時には心静かにして人生の来し方行く末に思いをめぐらし、人間の計らいを超えた不思議さを味わいたいものである。
(かとう・たかし)