日本的個人主義のススメ
NPO法人修学院院長 久保田 信之
関わり合い深め自由確立
慈愛と感謝で寄り添う関係を
私は長年、家庭裁判所の調停委員として、多くの夫婦間のトラブル、さらには親子や親族間の争いを「傍観者とは違う調停者の立場から」深刻に受け止めてきた。
「本当の私を取り戻す、自分に正直でありたい」との欲求を強くし、現在の人間関係を「もうこれ以上耐えきれない、息苦しい最悪の状態だ」と「自分で自分を追い込み」「悩みに悩みぬいた結果」、離婚・離縁その他、現在の関係を清算した彼方にのみ救いがあるとの結論にたどりついた人が家庭裁判所の門をたたく、これが実態だ。
建前上は「双方の話し合いの場」、すなわち、争う中には見落としてきた「相手の主張」を、裁判官や調停委員の助言を受けながら受け止め「以前とは違う自分に出会う」。これが家庭裁判所の本来の存在理由であった。しかし、現在ではこうした柔軟性は双方にない。話し合いは、自分の本心(言いたいこと)をどれだけ相手に受け入れさせるかの行為であり、自己主張の勝負なのだ。
定着せぬ西洋個人思想
身勝手な「我欲の争いの場」が今や家庭裁判所で展開されているのだ。話し合いが「自己主張の戦い」になるのは今や、日本社会の通例だ。
「本当の私、正直な自分が、私自身の中にいる」と信じ込ませたのは、複数の要因が1945年以降、日本に発生したからと言わざるを得ない。社会的、思想的に根源的な変化が整わず、「複合汚染」を醸し出し、落ち着きのない日本の精神状態のまま今日に至っていると言える。
こうした精神的混乱状態の背景には、インディビジュアルすなわち「もうこれ以上分けられない、はずせない個」と捉える西洋の個人思想が日本には定着し得ないという根源的な問題があることを指摘したい。この言葉と初めて出会った明治の先人たちが悩み苦しんだ事実を、戦後の進歩的文化人は無視し続けたことが問題なのだ。
最近のDNA研究や遺伝学の業績から言えば、人間は生まれ出たその時に、親に代表される「縦の繋(つな)がり」を豊富に受け継いでいるのであるし、成長という課程の中で「さまざまな要素・要因」を受け取っている「自分」を形成しているのだ。言い換えれば「私以外の、物的精神的諸要因の結晶体だ。一般化された他者だ」と明言した学者がいる。すなわち、自分・私とは、物的精神的環境によって形成される「可変的な存在」なのである。
日本人の多くは、己を有らしめ、支えている「唯一絶対なる存在としての神」を伝統的に受け入れることはできない。それなのに「神のみ旨通りに生きる」というキリスト者の真似(まね)をし始めたから「自己を正当化して恥じず、他者を受け入れない、成長力のない固我の持ち主」が多く生息することになったのだ(参照『神なし個人主義』振学出版)。
「神なし個人主義者」は、己の中に、己を厳しく律し、成長させる「大いなる規範」を置いてはいない。「万人が万人のオオカミになり安寧が破壊される悲劇」を脱却するために、常識、伝統を尊重し、社会規範を学ぶことから「成長していく」という発想を身に着けたのだ。
今の日本の子供たちは、思春期で親が手を緩めるので精神的に成長が止まってしまうことが多い。真っ向から子供と対決するのを諦め、争いを避ける。「それぞれの人生だから」と「個の尊重」と称して突き放す。
「神意識がある典型的なインディビジュアル」であれば、「双方が容認する最上位」にまで価値の序列を高めることが出きる。しかし、現在の日本は「価値の序列」を受け入れる幅がひどく狭い。身の安全を守るためには「それぞれの人生だから」とか「自分の問題だ、自分で責任を取る」だと不満が残るが、それ以上深入りせず、相手を「突き放して身の安全(自由)を守る」ほかない、と個人主義者は説いてきた。
共に喜ぶ「自他の合一」
改めて「相手を突き放して自由を得る」のではなく「関わり合いを深め広げることによる自由を確立する道」を考えてみたい。他を排除する「個の確立」ではなく、相手の喜びが己の喜びである「自他の合一」。「慈愛と感謝で寄り添う」人間関係を私は求めたいものだ。
(くぼた・のぶゆき)