軍事忌避と民主主義の「怠惰」

東洋学園大学教授 櫻田 淳

国家は「獰猛なドーベルマン」
飼い馴らす技藝こそ政治の本質

櫻田 淳

東洋学園大学教授 櫻田 淳

 現下、日本学術会議に寄せられた批判の焦点の一つになっているのが、2017年の「軍事的安全保障研究に関する声明」を含めて、学術研究の軍事関与を禁止する趣旨で発出されていた二、三の声明である。それは、喩(たと)えて言えば、「病のことを考えなければ病には罹(かか)らない」と想定した声明である。

 筆者は、政治学徒として自由の価値と民主主義体制の意義を信奉することにおいて人後に落ちないけれども、それは、自由の価値を実現するのが国家という名の「獰猛なドーベルマン」を飼い馴らす目的であり、その「獰猛なドーベルマン」を御すのに民主主義体制が「最も害の少ない」制度であるからである。

「無害なチワワ」の日本

 しかしながら、第2次世界大戦後、現在に至るまでの日本社会では、国家は「獰猛なドーベルマン」ではなく「無害なチワワ」として存在しなければならないと解する空気が横溢(おういつ)した。そうした空気に浸(つ)かることを正当付けたのは、多分に憲法第9条の規定とそれに結び付いた「戦時中の記憶」であった。

 こうした空気を反映したのが、前に触れた日本学術会議の「軍事忌避」声明である。そして、この「軍事忌避」の空気に乗じた自らの立場を「自明の正義」として唱える人々は、世には「左派」と位置付けられ、自ら「リベラル」と称してきたわけである。

 日本学術会議が「軍事忌避」を信条とする一群の人々に実質上、牛耳られた結果に相成ったのは、この「学問の自由」を標榜(ひょうぼう)する集団ですらも、戦後日本社会を支配した「空気」には抗(あらが)えなかった事情を示唆する。

 逆に言えば、国家は「獰猛なドーベルマン」として存在し、それに相応(ふさわ)しい構えを持つべきであると唱える人々は大概、従来の日本社会では、「右翼」だの「保守反動」だのと呼ばれてきたのである。しかし、「獰猛なドーベルマン」か「無害なチワワ」か、という認識が政治スペクトラムの左と右、あるいは保守とリベラルを分かつ基準なのであれば、それは日本でしか通用しない異様な議論であろう。

 米国民主党、英国労働党やフランス社会党のように、それぞれの国々で「左派・リベラル」と位置付けられる政治勢力は、実際の政権運営の折には、「獰猛なドーベルマン」の飼い馴らしを前提とした政策対応を行っているのである。そもそも、「獰猛なドーベルマン」を飼い馴らす緊張感を免じられた民主主義論議には、どれだけの意義があると言えるのであろうか。

 仮に日本の左派・自称リベラル層が「結局、日本人には『獰猛なドーベルマン』を飼い馴らせない。『無害なチワワ』を飼っていればよい」という理屈の下、「獰猛なドーベルマン」を飼うことに抵抗してきたのであれば、それは、一つの見識である。

 しかし、そうした論理は、日本の左派・自称リベラル層における「日本民主主義への不信」を反映していないのか。そこには、「民主主義の擁護」を唱える人々が実は「民主主義への不信」を内々に抱いているという倒錯した風景が浮かび上がっている。

 ニコロ・マキアヴェッリ、トーマス・ホッブス、マックス・ウェーバーといった現実主義の系譜に連なる政治思想家は、ホッブスが呼ぶところの「凶暴な怪獣」としてのリヴァイアサンを統御する技藝(ぎげい)こそが、政治の本質であると示した。

「ごっこ遊び」の一断章

 リヴァイアサン、すなわち筆者が喩えるところの「獰猛なドーベルマン」を飼い馴らすことに真正面から取り組まない政治は、結局のところ、「ごっこ遊び」の類でしかないのではないか。

 日本学術会議に絡む現下の紛糾もまた、「学問の自由」の侵害云々(うんぬん)の議論が大仰に語られる割には、そうした戦後日本で延々と続いた「ごっこ遊び」の一つの断章にすぎないのではないか。

(さくらだ・じゅん)