古文書が伝える災害の教訓

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

優れた古代の観測記録
地震の周期や被害想定に有益

濱口 和久

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

 大海人皇子は、天武天皇元(672)年に起きた古代日本最大の内乱である壬申の乱を勝ち抜き、天武天皇として即位する。そして、天武天皇が編纂(へんさん)を命じ、養老4(720)年に完成したのが『日本書紀』だ。

『書紀』が記す巨大地震

 天武天皇の時代になると、中央集権国家が確立され、日本各地からさまざまな情報が迅速に都に集まるようになる。その中には災害の情報も含まれていた。

 『日本書紀』の天武天皇7(678)年の項には、「現在の九州北部で地震が起き、大きな地割れを生じ、多数の家屋が倒壊した」という記述がある。このとき、岡の上にあった百姓の家屋は、地震の夜に岡が崩れ、土砂とともに移動したが、家屋は無事だった。そのため、朝になって初めて、家屋が移動したことに百姓は気付いたという。

 この地震は、近年の築後国府跡の遺跡調査から、福岡県久留米市付近で起きた可能性が高いことが分かっている。

 天武天皇13(684)年の項には、日本で最初の巨大地震の記述が出てくる。「山は崩れ、川は氾濫し、あらゆる建物が倒壊し、多くの死傷者を出した。高知県の沿岸では、五十余万頃(しろ)(約12平方㌔)の田畑が海に沈んだ。さらに、土佐の国司からの報告として、南岸一帯に大津波(4~6㍍)が襲来し、都に貢物を運ぶための船が多数流失した」という記述がある。このとき、愛媛県松山市の「道後温泉も埋もれて温泉の湯が出なくなった」ともある。

 被害の大きさ、大津波などから総合的に判断すると、この地震は安政元(1854)年の「安政南海地震」や、昭和21(1946)年の「南海地震」とほほ同じ、南海トラフを震源とする地震だったと推定される。のちにこの地震は「白鳳大地震」と命名され、その痕跡は至る所に残っている。

 白鳳大地震の詳細な記録が、今後起きると予想されている南海地震の再来周期を推し量る上でも、あるいは今後の被害想定を立てる上でも、貴重な史料として現代に生きているのである。

 災害の記録は『日本書紀』だけにあるのではない。その他の古文書にも、地震や火山噴火についての記述は多数ある。古くは富士山の噴火も『万葉集』や『柿本集』に詠まれている。平安時代になると『日本三代実録』のような史書に加えて、さまざまな文学作品にも富士山の噴火の様子がたびたび登場してくる。

 平安文学を代表する『更科日記』や『竹取物語』にも、富士山の活動が続いている状況を描写した文章がある。ちなみに、正確な年代を記した最古の噴火は、『続日本紀』にある天応元(781)年の噴火だ。「火山灰が雨のように降り、灰の及んだ所は木の葉がすべて枯れた」とある。

 富士山最大の噴火といわれる貞観6(864)年の「貞観大噴火」については、『日本三代実録』の詳細な記述と地質学的調査によって、全貌が解明されている。

 日本列島に生まれたからには、日本人は自然災害と向き合う運命にあることを認識しなければならない。人間の力では自然災害を未然に防ぐことが難しいならば、自然災害に対する備えを整備しておくことが大事だ。

国民に必要な「備災力」

 自然災害が起きると、行政・自治体が助けてくれるという意識が日本人には強いが、基本的には行政・自治体などの「公助」に依存しないで、自分の命や家族の命を守るため「自助」の取り組みとして、避難行動(避難ルートの複数の確認、家族との連絡方法)や、ハザードマップの確認、備蓄品・非常持ち出し品などの準備を怠ってはならない。

 阪神・淡路大震災での死亡原因の8割が、建物の倒壊や家具の転倒による圧死・窒息死であったことを考えれば、私たちが毎日暮らしている自宅の耐震補強や家具の転倒防止なども、命を守る上で重要な地震対策となる。

 いまだに日本には、国家としての緊急事態法制も未整備のままである。次に来る巨大災害に対する「備災力」を、国家、そして日本人一人ひとりが持たなければならない。

(はまぐち・かずひさ)