社会を分断する新型コロナ
沖縄大学教授 宮城 能彦
「自粛」か「ただの風邪」か
なし崩し的に「普通の生活」に
新型コロナはますます猛威を振るい社会を分断している。
「このままではアメリカのように多くの死者が出るのも時間の問題」という「専門家」もいれば、「そのまま収束する」という「専門家」もいる。「新型コロナ」がいかに恐ろしいウィルスであるかと連日報じていたテレビも、次第に異なる「専門家」の意見も紹介するようになった。
街中でマスクをしない人が顰蹙(ひんしゅく)を買う一方で、SNS(インターネット交流サイト)では、「コロナはただの風邪」とか「マスクの効果はない」とする書き込みも目立つようになってきた。「コロナは怖い」と「怖くない」がお互いに罵(ののし)り合っているのだ。
変わらぬ人々の考え方
まだまだ暑い沖縄でも、街を歩く人のほぼ全員がマスク姿。その一方で、ランチビュッフェに行ってみると、中高年の女性のグループが大きな声で談笑している。
これから「専門家」が何を発言しようとも、もう人々のコロナに対する考え方は変わらないだろう。皆が同じ考えになることはなく、両極端に分断されたまま続いていくのである。
一方の極は「自粛生活を続けるべきだ」と考える人、もう一方の極は「ただの風邪だからマスクもいらない」という人。人々のコロナに対する考え方はもう既にほとんど決まっていて、自らの考えと同じ意見、それを裏付けしてくれる「専門家」の意見しか耳に入らない。
おそらくこれからは、なし崩し的に「普通の生活」が戻っていくのだと思う。
現実的に、若年層の重症化の確率がとても低いことだけをとっても、新型コロナの恐ろしさを身近に具体的に実感できる人はかなり少ないからである。「無症状者が突然重篤化する」「後遺症が深刻」だといくらテレビで繰り返し報じられても、具体的にそういう人が身近にいない限り、人々はそれに疑問を持つようになるのは仕方のないことだ。
私は、「新型コロナは恐ろしくない」と言いたいわけではない。正直言って私には分からない。多くの「専門家」の発言に耳を傾けるほど分からなくなるのだ。ただ、この感染症の正体がどうであれ、それとは別の力学で人々の行動が変化している。簡単に言えば、もう新型コロナ騒動に疲れたのである。
アメリカ並みの多くの死者が出ない限り、これからますます人々は街に出て、Go To キャンペーンで旅行へ出掛けるだろう。
その行動の是非を問うことは、あまり意味がない。
我々は、人々のその行動を「前提」として考えなければならないのだ。
ところで、そういった世の中の流れの中で独り取り残されているのが大学生たちである、ということを前回書かせてもらったが、その後、大学はどうなったであろうか。
「大学に行きたい」「対面授業が受けたい」という大学生たちの叫び、特に「入学式もなく全てオンライン授業で一度も大学に行けていない」という新入生の悲鳴は、新聞やテレビでも取り上げられるようになり、当初、後(秋)期もオンライン授業のみの予定であった大学も少しずつ対面授業を増やしているようである。
しかし、実際には高学年の実験・実習や専門の授業のみで、新入生が丸一年間一度も大学に通えないという大学も少なくないのが実情である。幸いにも私の勤める大学は後期ほとんどが対面授業で行うことが決定されたが、そういう大学はまだ少数である。
学校に通えている小中高校生。満員電車で会社に通い、飲み会もあり、旅行に出掛ける大人たち。社会のそういった動きの中で、なぜか大学生たちだけが分断されている。
学生が希望持てる国に
ここで、「本来勉強というものは」とか「オンライン授業の可能性」等、説教するのはお門違いである。なぜなら大学は「楽しいキャンパスライフ」を売りにして彼らから入学金と授業料をもらっているのだから。学生からすれば「話が違う」。
若者に精神論を押し付けても意味はない。「みんなに助けられて今の自分がある」と思える若者を育てることが大人の役割である。決して甘やかすという意味ではない。大学生たちが自分の国に夢と希望を持てるように、私たちは知恵を出し合わなければと思う。
(みやぎ・よしひこ)