日本とトルコ 130年の絆
拓殖大学防災教育研究センター長 特任教授 濱口 和久
海難事故で献身的な対応
優先的にイランの邦人を救出
トルコは親日国家と言われている。しかし、最初から親日国家だったわけではない。今から130年前の9月に起きた海難事故がきっかけだ。
エルトゥールル号沈没
明治23(1890)年9月16日夜半、台風の荒れ狂う本州最南端の和歌山県串本町沖で、オスマン帝国(オスマントルコ)の親善使節が乗った軍艦エルトゥールル号が沈没する。司令官のオスマン・パシャをはじめとする乗組員500人以上が犠牲となる。生存者はわずか69人だった。
エルトゥールル号は、明治20年に小松宮彰仁親王がトルコのイスタンブールを訪問したことへの答礼使節として来日。皇居で明治天皇に謁見(えっけん)し、オスマン帝国の勲章および親書を奉呈した帰路の途中で、海難事故に遭ったのである。
海岸にたどり着いた生存者たちに、串本の人たちは精いっぱいの救援活動を展開する。濡れた服の代わりになる衣類を持ち寄ったり、正月にしか食べない白米を炊き出して食べさせ、卵や大切な鶏までも食料として提供したりした。身体が冷えないように懸命に温めたともいわれている。
明治天皇もエルトゥールル号海難事故の知らせを受けるや、日本政府を挙げての救援を命じられた。生存者たちは神戸に移送されると、和田岬にある消毒所(現在の検疫所)において、手厚い介護を日本赤十字社の看護婦から受ける。
事故から20日後、明治天皇の裁可により、生存者をトルコに送り届けるため、日本海軍は軍艦「比叡」「金剛」の2隻の派遣を決定。そして、約2カ月半の航海を経て、翌年1月2日、イスタンブールに無事に到着する。さらに、日本国内でエルトゥールル号海難事故のことが報道されると、トルコへの義援金募集が始まる。最終的に現在の貨幣価値で約1億円の義援金が集まり、トルコへ届けられた。このような日本人の献身的な対応は、帰国した生存者らによってトルコ国内に紹介されたため、いまだにトルコ人の多くが記憶に留めている。トルコでは明治23年を「土日修好初年度」としている。
昭和60(1985)年、イラン・イラク戦争開始から5年後、イラクのフセイン大統領は「3月19日20時以降、イラン領空を飛ぶ全航空機を攻撃対象にする」との声明を出した。
これによって、イラン在留外国人らは、自国の軍用輸送機や民間機で次々とイランから脱出していった。各国の航空会社は、まずは自国民優先ということで、正規の航空券を持っていても、予約した航空機に乗れない日本人もいた。
当時の日本は、自衛隊の海外派遣が法律で禁止されていたため、自衛隊機をイランまで飛ばすことができなかった。日本航空も「危険なところに組合員を送るわけにはいかない」という労働組合の反対もあって、日本からイランに救援機が飛ぶことはなく、日本人215人は途方に暮れ、脱出をあきらめかけた時、奇跡が起きた。トルコ政府が日本人を乗せるための飛行機の派遣を決定。この時点でイランには600人を超えるトルコ人がいたにもかかわらず、日本人を自国民よりも優先的に乗せてくれたのである。
撃墜予告の時間が迫るなか、日本人を乗せたトルコ航空機はイランを脱出する。無事にトルコ領空に入り、機長から「ようこそトルコへ」というアナウンスが流れた瞬間、機内の日本人は歓喜したという。撃墜予告のタイムリミットの約1時間前だった。
自国民より日本人を優先して救出する決断を、なぜ、トルコ政府(オザル首相)は下したのだろうか。間違いなく95年前のエルトゥールル号海難事故の時に、日本人が献身的に生存者に対応したことへの恩義からだろう。
毎年串本町で追悼式典
平成27(2015)年、日本とトルコの友好125周年を記念し、日本・トルコ合作映画『海難1890』が公開された。映画は、二つの事件(エルトゥールル号海難事故とイラン邦人救出劇)を通して、日本とトルコの絆が描かれていた。
毎年9月には、犠牲となったトルコ人の追悼式典が串本町で開催されている。同町とトルコ大使館は16日、トルコ軍艦エルトゥールル号遭難慰霊碑前で、日本トルコ友好130周年の追悼式典を開催した。
(はまぐち・かずひさ)






