危機に接し露わになる「魂」
名寄市立大学教授 加藤 隆
問われるいのちの根幹
「人間に問う存在」に目覚めよ
「死んでいる生者」「生きている死者」という言葉がある。「死んでいる死者」「生きている生者」が我々の常識なのだが、確かにそのようなこともある気がするのだ。
「旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天(あま)の鶴群(たづむら)」。この歌は万葉集に収められている遣唐使の我が子を送り出す母の歌である。1300年以上前の母であるから、生物学的にはすでに亡くなっている。しかし、切々とした真心は言霊のごとくであり時空を超えて感動を与えてくれる。まさに、「死んでいる生者」ではないだろうか。他方、妻の死や病気を苦にして「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以(ゆえん)なり」と書いて自死したこの作家は、すでに死を帯びていたのではないだろうか。
虚無感が示唆するもの
ところで、人間の生死が厳しく問われる場面にホスピス病棟がある。余命何カ月と区切られて、その中で人生を甘受し、心を落ち着かせて日々を過ごすことは並大抵のことではない。多死化が進むにつれて日本人の死生観も変化しつつあるとはいえ、ホスピスで過ごす患者たちは、社会で纏(まと)ってきた鎧(よろい)が皮を捲(めく)るように取り去られていき、最後に自分の実存が露(あら)わとなる。ある著名なホスピス医は、「ホスピス病棟で露わになるのは魂である」と語っていたが、実存にしても魂にしても、その人をその人たらしめているいのちの根幹が問われることになる。
また、人間の生死が厳しく問われる場面で思い浮かぶのは、強制収容所で数百万と言われるユダヤ人が犠牲になった光景である。収容所を生き延びた精神科医のV・フランクルは、収容所での出会いを振り返って、意味深いエピソードを語っている。フランクルのもとに死にたいと告げにきた二人の人がいた。彼らにフランクルは次のように問いかける。「あなたたちを待っている何かがあるはずです。それが何かを考えてください」。しばらくの沈黙のあとで、一人の人は「愛してやまない子供が外国で待っている」と答えた。もう一人の人は「科学の研究書をまだ書き終えていない」と答えた。このようにして二人は自殺を思いとどまったという。彼らには待っている何か、誰かがいたのである。
我々は危機に接するなかで、普段は脇の方において見向きもしない何かが露わになる。一つは、ホスピス病棟で触れた「魂」であり、もう一つは、フランクルが語った「人間に向かって問う存在」への目覚めではないだろうか。この2点を以下にまとめてみたい。
まず、「露わになる魂」である。精神的虚無感がアメリカ社会を覆っているという。ルーティンのように定時に目覚ましで起こされ仕事場へと押し出され、夜に戻ってテレビを見て寝るような単調な生活が繰り返される。大成功を収めた人物も、「なんでもっと達成感がないのだ。まるで偽物みたい」と語っていた。彼らばかりではなく我々も「いい生活」と「いい人生」の違いを再考する時ではないだろうか。内なる自分は、単に数値で測られる人生を願っているのではなく、「何のためにここにいるのか」「どこへ向かっているのか」という人生の意味や目的を求めてやまないのであり、それが満たされずに精神的虚無感に陥っている。これは、魂の飢え渇きを物語ってはいないだろうか。
二つ目は、「人間に向かって問う存在」である。私自身(おそらく多くの方々も)、まったく不思議としか思えない経験をしている。自分の意向とは関係なく、向こうの方から多くの「出来事」が矢のように向かってくることである。自分の思い通りに出来事が起きて展開するならば、私は自分の人生の主人公といってよいのだが、私に向けられる「出来事」は、意に反している、反していないに関係なく、毎時毎時に矢のように向かってくる。
投げかけられる「出来事」
かように、「出来事」が私の計算とか示唆とは全く次元の異なるところで仕組まれ、投げかけられている不思議さと霊妙さ。つまり、一人一人が「人間に向かって問う存在」から「出来事」という形で掴(つか)まえられ、応答するよう義務づけられている。職業を意味するドイツ語の Berufも英語のcalling も、もともとは天から呼びかけられた使命とか天職を意味する。これもまた「人間に向かって問う存在」からの視座ではないだろうか。
今日、人生の意味とか自己肯定感が揺れ動いているが、その根拠もこの辺りに知恵が隠されている気がする。
(かとう・たかし)