日本人が忘れてならぬ硫黄島の戦い
拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久
圧倒的戦力差も徹底抗戦
防波堤として散った栗林部隊
東京都内から南へ約1200㌔の距離にある小笠原諸島南端近くに位置する硫黄島は活火山の火山島であり、島内の至る場所で硫黄独特の臭いが立ち込めている。広さわずか20平方㌔余りの小さな島には、海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれ、基地関係者以外は立ち入りが制限されている。私は防衛大学校学生の頃、春の訓練で訪れたことがある。
日本軍上回る米軍被害
昭和20(1945)年3月、この島で日本軍と米軍が壮絶な戦いを繰り広げた。この時、日本軍守備隊を指揮したのが栗林忠道中将だ。
栗林中将は昭和19年5月27日、小笠原方面を守備するため、父島要塞守備隊を基幹とする第109師団長となり、6月8日、硫黄島に着任する。7月1日からは、大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任し、海軍陸戦隊も含め、小笠原方面最高指揮官となる。
米軍の硫黄島への総攻撃が始まると、日本軍守備隊は約1カ月間持ち堪(こた)え、米軍の死傷者数は2万8000人を超えた。日本軍は約2万2000人が戦死。死傷者数でいえば、硫黄島の戦いは、大東亜戦争で米軍が反転攻勢に出て以降、被害が日本軍を上回った唯一の地上戦だった。
なぜ、硫黄島の戦いはこれほどまでの激戦となったのだろうか。日本本土への空襲を防ぐための絶対国防圏の中核だったサイパン島が昭和19年7月9日に米軍の攻勢で陥落。サイパンと東京のほぼ中間に位置する硫黄島の戦略的価値が高まっていたからである。米軍も、マリアナ諸島を基地とした日本本土爆撃に向かうB29の不時着場として、さらにはB29を護衛する戦闘機の基地として、硫黄島を重視していた。
昭和20年2月19日、600隻を超える米艦隊と11万2000人の米兵が群青の海を埋め尽くし、硫黄島に上陸を開始。日本軍守備隊は米軍に甚大な損害を与えたものの、3月7日、最後の戦訓電報を大本営に打電する。さらに組織的戦闘の最末期となった16日午後4時には、玉砕を意味する訣別(けつべつ)電報を大本営に打電。その際、栗林中将は、辞世の句「国の為 重きつとめを 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」を一緒に送っている。26日、栗林中将は、生き残った400人余の残存兵の先頭に立って最後の総攻撃を敢行し、戦死を遂げた。総攻撃の際、軍服から階級章を外していたため、遺体は確認されていない。
米国では当時、硫黄島の戦いがリアルタイムで報道されていたこともあり、この戦闘の状況と栗林中将の名は広く知られている。特に戦後、米国では「太平洋戦争(大東亜戦争)における日本軍人で優秀な指揮官は誰か」と質問すると、栗林中将の名前を挙げる者が多い。
戦闘自体は日本軍の敗北に終わったが、栗林中将は、日本軍の3倍以上の兵力および絶対的な制海権・制空権を持ち、予備兵力・物量・補給線・装備の全てにおいて圧倒的に優勢であった米軍の攻撃に対し、最後まで将兵の士気を低下させずに戦った。長大かつ堅牢(けんろう)な地下陣地を構築した上で、不用意な万歳突撃などによる玉砕を厳禁し、徹底抗戦を指示した。戦車などを大量に撃破させるといった物的損害を与えることにも成功し、のちに米軍幹部をして「勝者なき戦い」と評価せしめたほどだ。
米軍も驚いた周到準備
米太平洋艦隊司令長官だったニミッツは「この豆粒大の火山灰の堆積の上に、日本軍は精強な戦闘部隊である陸軍1万4000人と海軍陸戦隊7000人よりなる守備隊をはりつけた。硫黄島防備の総指揮官である栗林忠道中将は、硫黄島を太平洋においてもっとも難攻不落な8平方マイルの島要塞とすることに着手した。この目的を達成するためには地形の全幅利用を措(お)いてほかに求められないことを彼は熟知していた。歴戦剛強をもって鳴る海兵隊の指揮官たちでさえ、空中偵察写真に現れた栗林部隊の周到な準備を一見して舌を巻いた」(『ニミッツの太平洋海戦史』)と記している。
私たち日本人は、「防波堤」として命を賭して戦った栗林中将以下、全ての将兵のことを記憶に留めておきたい。
(はまぐち・かずひさ)