「知ること」と「信じること」
名寄市立大学教授 加藤 隆
信頼が知識獲得の前提に
事実に対する解釈が人生左右
我々は見えるものに囲まれ、見えるものしか信用しないような風潮の中に生きているが、本質的には見えないものに大きく左右されている。結婚相手に「三高」という見える条件を求めつつも、結婚する3組に1組が離婚する原因の大半は、信頼関係という見えないものの喪失である。或(ある)いは、子どもたちの集う教室や一家団欒(だんらん)の場である家庭にどんなに立派な設備や調度品が揃(そろ)っていたとしても、ここに居場所はないと言って去っていく人たちも少なくない。居場所があるかないかも、心の深いところでの判断である。
価値観を基に意味づけ
ことほどさように、我々は目に見えるものこそ確かで間違いないと思い込んでいるが、実際には信頼とか自信とか共感のような目に見えないものに動かされている。目で確かめることができる形で「知ること」が現代人にとっては最高知であり、「信じること」などは科学の発達とともに消え去っていくものと思っているのではないだろうか。そのような単純形式で判断することの齟齬(そご)が、現代の多くの問題を生んでいる気がするのだ。
さて、目に見える形で「知る」ということを少し考えてみたい。たとえば、本か何かを読んでいて、テーブルにコップの水が半分あることに気付いたとする。つまり、事実の把握はしたのである。しかし、人間は事実に生きてはいない。実は、事実に対する解釈(意味づけ)に生きている。半分の水という事実に対して、「もう半分しかない」と解釈する人もいれば、「まだ半分もある」と解釈する人もいる。つまり、解釈はその人にかかっており、言わば、その人の価値観とか世界観に結びついている。悲観的に自分と世界を見ている人間は事実を悲観的に意味づけするし、楽観的な人間は事実を楽観的に意味づけするのだ。このように、事実を「知ること」以上に、圧倒的に人生に影響を与えているのは、その人間の解釈(意味づけ)であり、これは「信じること」に深く基礎づけられている。
ところで、「知ること」と「信じること」で思い出されるのは、公園で遊ぶ幼子の姿である。ある幼児は無心になって砂場を創造の場とし、ある幼児は滑り台を滑走してはすぐさま階段を上っていく。どれほどの知的アンテナが働き、豊かな経験となっていくのか想像を超えるほどである。いわば、幼児は「知ること」の連続を経験している。ところが、よく見ていると、ときおり母親の方を振り返るのである。自分が上手(うま)くできたことを伝えるために振り返ることもあるし、単に母親の存在を確認するために振り返ることもある。おそらく振り返ることで、子どもの心には次のような確信が湧き出ているに違いない。「母親が見つめているから、この公園に身を委ねていいのだ」と。このように、幼児にとっては「信じること」の次元が岩盤のように息づいていて、その安心感の上で「知ること」の連続を経験しているのだ。
このことは、単に幼児にのみ当てはまることではなく、すべての人間にも言い得ることではないだろうか。オーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインは語っている。我々がいろいろなことを学び、知識を獲得する過程の全体が、何らかの根源的な「信じること」を前提とし、それに基づいている。例えば、ある探検家がしかじかの日に困難な登山に成功した、或いは、昔ある場所で合戦が行われたなどの事実について教えられる時、当の山、および合戦の行われた場所が位置を占めている大陸が、長い年月にわたってそこに存在していたことなどについて改めて学ぶことはない。むしろ、そのような事柄は歴史を学ぶことを可能にする根拠として予(あらかじ)め信じられているのだと。ここでもまた、「信じること」の次元が根源的に息づいていて、その基盤の上に「知ること」が展開されていることを示している。
250万年も前の銀河の光
さて、アンドロメダ銀河という美しい星がある。肉眼で見える最も遠い天体で、地球から約250万光年の距離に位置している。つまり、我々は250万年前に発せられた光を、ようやく今この時代に見ているわけである。もし、瞬間移動できるタイムマシーンでアンドロメダ銀河に瞬時に行けたとしたら、すでにアンドロメダ銀河は消滅しているかもしれない。過去の光を今、見上げている不思議さ。ここにも、「知ること」と「信じること」の深い知恵を思うのである。
(かとう・たかし)






