超高齢多死社会の医療を考える
メンタルヘルスカウンセラー 根本 和雄
ケア中心に「健生安死」を
望ましい癒しと看取りの医療
わが国は紛れもなく超高齢化が加速しつつある中で、それに伴って必然的に多死社会の波が押し寄せている昨今ではなかろうか。
2019年には、65歳以上の人口は3588万人で総人口に占める割合は28・4%、しかも、75歳以上の人々の5人に1人が要介護に置かれている状況である。また、同年の死亡者数は137万6000人と戦後最多に達している。今後、高齢者の人口はさらに増え、60年には総人口の40%が高齢者になるといわれる。このような状況に直面している中で、これからの医療はどうあるべきか、極めて重要なことではないかと思う。
人生最大の出来事である「生・老・病・死」の中で、とりわけ「老」「病」「死」に視点を向ければ、今後医療はこの問題とどう関わり、それに対して、どのようなケア<care>が求められるのか、その一端を述べてみたいと思う。
病と付き合い支え合う
近年、医学の進展は著しく変化する中で、自律神経や内分泌系の研究、さらに免疫学の発展に伴って、疾病観にも変化が生じ、これまでの疾病局在論的思考から、精神・身体相関論的思考に、かつ全人的医療へと新しく状況は変わりつつあるのではなかろうか。
もとより、「生・老・病・死」そのものが医療の<対象>であり、かつ医療の目標は“健やかに生命(いのち)を保ち、安らかにこの世から旅立つ”という「健生安死」ではないかと思うのである(池辺義教著『医学を哲学する』参照)。つまり、生と死を同時に兼ね備えつつ、いかにその時々にケアが深く関わるかということではなかろうか。すなわち、「老い」は<eldercare>であり、「病(やまい)」は<primarycare>で、そして「死」は<terminalcare>ではないかと思うからである。
そのターミナル・ケアは、病める人に人間的に接する最後の機会であり“尊厳を保ちその全生涯を全うさせる極めて大事な時”なのである。大切なことは傍らにいて見守りつつ、常に慰め、その人らしさを実現させることではなかろうか。これからの望ましい医療は、身体(からだ)の治療だけではなく、病める人が「病」に、どう対処しようとするかという配慮であると思う。つまり、病気を治す医療から、病と付き合い支え合う癒しと看取(みと)りの医療が求められていると思う。それ故に、ケアの本質は“その人がその人らしく成長すること、そして、その人の自己実現を助けること”に他ならないのである(M・メイヤロフ『ケアの本質』参照)。そこには、温もりのある思いやりと配慮<careful>を伴うことは言うまでもない。
さて、私たちが望む健康とは、この自己実現を達成することではないかと思うのである。何故(なぜ)ならば、ルネ・ディボス(病理学者)は、こう語っているからである。
「人間がいちばん望む種類の健康は、必ずしも身体的活力と健康感にあふれた状態ではないし、長寿をあたえることでもない。実際、各個人が自分のためにつくった目標に到達するのにいちばん適した状態である」(『健康という幻想』1959年、田多井吉之介訳)
今、「超高齢多死社会」における医療の在り方を思うとき、自然の摂理に適(かな)うことではないかと痛感せずにはいられないのである。このことは、いみじくも道教(老荘思想)によれば、「我れを労するに生をもってし、我れを佚(いつ)するに老をもってし、我れを息するに死をもってす」と。すなわち“働くために生まれ、憩うために老いが与えられ、そして休むために死が与えられる”と述べているからである。そこには「自分の生をよく生きることが、自分の死をよくする手立となる」(『荘子』)という「生死一如」の人生観を読み取ることができるのではなかろうか。
「生死一如」の死生観を
これからの医療は、「心身相関」つまり「心身一如」の視点から全人的医療として「生死一如」の死生観が求められるのではなかろうか。そこには、“安らかな死は、健やかな生を全うする”ことへの深い思いが秘められているのではないかと思うのである。
終わりに、エドワード・リビングストン・トルドーの記念碑の言葉は、今もその大切さを語り続けていると思う。
“時に癒し しばしば支え つねに慰める”
(ねもと・かずお)