明智光秀をどう評価するか

哲学者 小林 道憲

常に書き変えられる歴史
時代を反映し評価も二転三転

小林 道憲

哲学者 小林 道憲

 「時今也(ときはいま)桔梗(ききょうの)旗揚(はたあげ)」という歌舞伎演目は、江戸時代も爛熟(らんじゅく)期・文化文政期の歌舞伎作家、四世・鶴屋南北の作である。これは、それまで封建時代にあるまじき主殺しの謀反人とされていた明智光秀の本能寺の変での行動を、長年信長に虐(いじ)められていた光秀の積もりに積もった怨念からの復讐(ふくしゅう)であったという逆転解釈でできている。

下剋上が横行した乱世

 しかし、本能寺の変が起こされたのは、戦国時代という無秩序時代であった。そこでは、謀略や欺瞞(ぎまん)、残虐や不信が渦巻いていた。臣下が主人を殺して国を乗っ取るというような下克上的行為が横行したのも、この時代であった。乱世と言われたこの時代を、多くの戦国武将たちは裏切りや陰謀を繰り返しながら戦いに明け暮れた。この乱世を切り抜けて一応の天下統一に至った織田信長も、そういう殺戮(さつりく)、強奪、殲滅(せんめつ)など下克上的行動を平気で実行して天下統一に至っている。

 それにもかかわらず、信長の方は英雄として称(たた)えられ、光秀の方は極悪非道の逆賊とされてきたのは、ただ、末路の結果によって判断されているにすぎない。光秀を謀反人とすることも、光秀の一世一代を懸けた行動が意図に反して短時間で失敗に帰したという結果から判断されているにすぎない。

 本能寺の変を光秀の謀反だとレッテルを貼り糾弾したのは、とりもなおさず、信長の死によって天下を取る好機を獲得した秀吉自身であったに違いない。もしも仮に、山崎の合戦で秀吉軍が負けていたら、光秀の天下あるいは光秀による室町幕府の再興が成立し、光秀謀反人説は雲散霧消したであろう。歴史は常に勝者によってつくられる。後の勝者を正当化するために、前の敗者はことさらに低く評価されるのである。

 光秀を主殺しの謀反人とした秀吉のプロパガンダは、その後の徳川幕府の封建体制でも追認され、封建道徳の強化に利用されていった。ただ江戸時代も後期になると堅固な封建道徳も崩れだし、鶴屋南北の光秀擁護論も登場し得たのである。明治時代から第2次大戦くらいまでは、再び光秀の行動は非難される傾向にあったが、第2次大戦後は、その歴史的経緯が各方面から掘り起こされ、光秀の評価はまた変わってきている。光秀の行動は、時代の変化とともに、逆臣による謀反とみられたり、戦国時代には当たり前の合理的行動とみられたり、評価は二転三転していると言うべきであろう。歴史解釈は、過去の歴史的事実そのものではなく、いつも、解釈している現在の時代を反映する。

 明智光秀は、実際には、文武両道のたぐい稀(まれ)な名将であった。軍略にも優れ、和歌をはじめ日本の古典への教養にも恵まれた一流の文人でもあった。朝廷や公家との交流も深く、宮中対策もよく行った。その見識と心情は、所詮(しょせん)野人にすぎず暴虐を極めた独裁者・信長と相いれるものではなかった。特に、信長の朝廷に対する横暴が極まり、正親町(おおぎまち)天皇に退位を迫るに及んだとき、その信長の悪逆を天下の妨げと見て討ち果たしたのが、本能寺の変における光秀の行動であったともみることができる。

 最近では、光秀の行動も、京都の公家衆、足利義昭、毛利、上杉、本願寺勢力らとも連携し、確かな成算のもとに起こされたことだったとも言われている。しかも、その暴君排除は、宮中や仏教界をはじめ当時の多くの人々に期待されていたことだったともいう。それどころか、光秀の蹶起(けっき)は日本の正統を守護しようとした義挙であったという解釈さえなされている。

視点違えば見え方変化

 明智光秀の行動は、その時代その時代の文脈や解釈者の視点の違いによって、その意味評価は目まぐるしく変わってきた。時代や歴史家の違いによって、歴史は多様に語られる。歴史的事実は一つでも、多くの異なった視点から眺められることによって、多くの異なった見え方が現れてくる。歴史的事実が置かれる文脈が変わると、過去の見え方も変わり意味も変化するのである。だから、歴史は常に書き変えられ更新されていく。

(こばやし・みちのり)