日本軍はノモンハンでいかに戦ったか

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

甚大だったソ連軍の損害
スターリンが「大勝利」と喧伝

濱口 和久

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授
濱口 和久

 今年はノモンハン事件から80年目となる。そのため、ノモンハン事件に関連する書籍が数多く出版されている。10月7日の本欄でも、中澤孝之氏が「ノモンハン事件から80年」と題して書かれていた。中澤氏は日本軍敗北論の視点で書かれていたが、私はここで、日本軍は互角に戦ったとする視点でノモンハン事件について述べたい。

ソ連崩壊後に真実判明

 大東亜戦争(第2次世界大戦)後、東京裁判(極東軍事裁判)でノモンハン事件は日本が計画した侵略的行為とされた。日本国内の左翼陣営からは、「貧弱な装備で旧式戦法の日本軍がソ連の進んだ機械化部隊に完膚なきまでに叩(たた)きのめされた」という日本軍を貶(おとし)める悪宣伝に利用されてきた。映画化された五味川純平氏の『人間の条件』や半藤一利氏の『ノモンハンの夏』はこうした日本陸軍の愚劣さを象徴させる作品だった。だが、ソ連崩壊後、ロシア当局が公表した公式文書によって、ノモンハン事件でのソ連軍の損害は日本軍を大きく上回っていたことが明らかになった。加えて、「ソ連軍の進んだ機械化部隊」も「日本の侵略」も事実に反することが判明した。

 ソ連崩壊前、ソ連軍のノモンハン事件における損害(戦死傷者数)は、9284人とされ、日本軍の大敗北と公表されていた。実際には日本軍の戦死傷者は1万7495人、航空機の被害は180機、戦車の被害は30輌(りょう)だった。ソ連軍の戦死傷者は2万5565人、航空機の被害は350機、戦車の被害は300輌に及んだ。全てにおいてソ連軍の被害が日本軍の被害を上回っていたのである。

 ノモンハン事件の時点で、ジューコフは司令官(中将)としての経験も実績もない中、補給の極めて困難な遠隔地(モンゴル)で、未知の相手(日本軍)に対して、ソ連軍として初めて、機甲戦法に基づく攻勢作戦を実施するという、難しい任務をこなさなくてはならなかった。

 ソ連軍は「機械化(機甲科)部隊」と言いながら、ソ連軍戦車は、兵士の練度が低く、停止してからでないと射撃ができなかった。それに対して日本軍戦車は、走行射撃の技術を持ち、停止しているソ連軍戦車を容易に撃破できた。

 ノモンハン事件に投入された日本陸軍の97式中戦車は、この時代に各国の主要戦車であったソ連のBT5戦車、ドイツの4号戦車、イギリスのマチルダ1歩兵戦車、アメリカのM2中戦車とほぼ同程度の性能、それ以上の対戦車能力を持っていた。航空戦に投入された97式戦闘機の性能も、ソ連軍の装備を完全に凌駕(りょうが)しており、「ソ連軍=近代化部隊、日本軍=旧式部隊」という認識は、まったく誤りであったといわざるを得ない。

 スターリンはジューコフからノモンハンの戦況の報告を受けると、ソ連軍の被害の大きさを隠蔽(いんぺい)したまま「ノモンハンでの大勝利」という喧伝(けんでん)を全世界に行った。

 ノモンハンでの「嘘(うそ)の大勝利」の喧伝は、ソ連国内においてのプロパガンダという意味でも、ソ連共産党にとって非常に大きな成功となった。「無敵のソ連軍」としてのイメージを人工的につくり出したことは、国威発揚にも大きく役立った。ところが、すぐに「無敵のソ連軍」の化けの皮が剥がれていく。対独戦の緒戦で、ソ連軍は敗戦に次ぐ敗戦を重ねていく。これらの敗戦は、「無敵のソ連軍」神話を信じ切っていたソ連の一般市民のみならず、ソ連軍の兵士や士官たちにさえも、大きな心理的打撃を与えることになった。

日本軍の強さ示した戦い

 ノモンハン事件でソ連戦車部隊を指揮し、その後、モスクワ防衛司令官、スターリングラード防衛司令官を歴任したジューコフは、スターリンが亡くなると、米国に招待された。

 会見の際、記者から「貴方(あなた)の軍人としての長い生涯の中で、どの戦いが最も苦しかったか?」と質問されると、ジューコフは「ノモンハン事件」と答えた。「スターリングラードの攻防戦」という答えを予想していた記者たちからはどよめきが起きた。ノモンハン事件は日本軍の強さを示した戦いだったのである。

(はまぐち・かずひさ)