続・ドブルイニン回想録を読む
日本対外文化協会理事 中澤 孝之
SDIに激怒したゴルバチョフ
米ソ冷戦史のエピソード/レーダー工事遅れ大韓機撃墜
本紙11月24日付のビューポイント欄に「ドブルイニン回想録を読む」を寄稿したが、抄訳の紹介が紙幅の制限で十分果たせなかったので、本欄をお借りすることにした。続編としてお読みいただきたい。なお、ドブルイニンとキッシンジャーとの「秘密チャンネル」に関しては、邦訳「キシンジャー『最高機密』会話録(ウィリアム・バー編)」(1999年9月毎日新聞社刊行)でも指摘されていることを付言したい。以下、回想録の一部を抜粋する。米ソ冷戦史に隠れた興味深い個所が、ほかにも盛り沢山(だくさん)である。
◆米世論を過小評価
「ソ連指導部はまた、米外交政策で米議会が果たす役割を過小評価していた。それはまず、党指導部の決議をすべて盲目的に承認する自国の議会(筆者注・最高会議)への蔑視によって生み出された。(中略)クレムリンは米国の世論の影響力を明らかに過小評価していた。外界からの孤立は結局、とりわけ米国に対する疑惑と不安の感情を生んだ。米国は邪悪で、領土拡張の意図をもっていると見なされた。同じことは米国人にも言える。実際、彼らもまた、我が国を知らな過ぎた」
◆軍産複合体の影響
「ソ連の軍産複合体の影響力が強まり、次第にデタント(緊張緩和)を崩す主な障害となった。ソ連の議会や世論が軍事政策と国防計画をコントロールできない主な理由は、西側では想像できないことだが、安全保障面でのすべての活動がトップシークレットだからだ。政治局の多くのメンバーたちさえも知らされなかった。国防省と国防産業省は、司令官であり国防委員会議長である党書記長にだけ説明責任があるのだ。ブレジネフは軍産複合体と長い間密接な関係にあった。(中略)党と政府においてブレジネフの忠実な支持者だった軍幹部と軍事産業のボスたちは自分たちの計画を持って彼に自由に近づくことができた。しかし彼らは、外交に関する知識は乏しく責任もなかった。そうした軍事計画は世論や党書記長事務局外のシビリアン・コントロールによるいかなる真剣な吟味もなされなかった。最高会議、政府や、最高決定機関である政治局の中でも、知らされるだけで、協議の対象とならなかった」
◆アンドロポフ外交
「外交問題でアンドロポフとグロムイコは見解が近かった。国防相ウスチノフを加えた3人が政治局内で外交政策を決定するコアだった。(中略)アンドロポフは常に米国との関係に関心を抱いていた。私がモスクワに戻っているといつも、彼は私を個人的に招待した。彼の関心は幅広く、政治、経済、文化、社会生活、そして特に米国のエリート、ワシントンの政治関係者などだった。グロムイコのように、しかし、ウスチノフとは対照的に、彼は米国との対決を好まなかった。だが、レーガンについては軍事紛争の引き金を引く危険人物と見ていた。だから、彼はレーガンへの警戒を強め、ソ連の防衛力保持を決意していた」
◆サハロフ追放討議
「(1980年1月逮捕された)アンドレイ・サハロフをゴーリキー市に追放することを示唆したのは全政治局員のうちアンドロポフだった。私はたまたま別件で、サハロフ問題を討議する政治局会合に出席していた。サハロフ夫妻が西側の反ソ・キャンペーンの目玉だったので、外国人記者の入れない所に彼らを追放し、外国人と接触をさせないことがアンドロポフの狙いだった。しかし、チェルネンコ、グリシン、ソロメンツェフなどは追放場所をシベリアのどこか遠い所にするよう提案したが、アンドロポフはソ連第3の都市ゴーリキーの名前を挙げた。サハロフの主治医が強く主張している、モスクワとあまり変わらない気候条件の場所とアンドロポフは説明した。誰も彼に異議を唱えなかった」
◆レーガンと初会談
「これ(83年2月15日のレーガンとの会談)は私にとってレーガンとの最初の会談であっただけでなく、共産主義とソ連に敵対した彼の長いキャリアの中で、大統領就任3年目にして実現したソ連の上級代表(筆者注・ドブルイニンを指す)との最初の実りある会談であった。シュルツの回想録によれば、ナンシー夫人、ミカエル・ディーバー(大統領側近)とシュルツ以外の大統領の取り巻きは皆、この会談に反対だったが、レーガンは前進を断固決意したという。(中略)多分間違っているかもしれないが、シュルツは(レーガンに対して)何かを恐れている感じを私は受けた。シュルツは回想録の中で、彼は最初から、個人で大統領と会うことは少なく、部下を通じて接触していたと書いている。3人で会ったときの観察だが、私はレーガンとシュルツの間には、ブレジネフとグロムイコのような個人的に親密な関係はなかったとの印象を受けた」
◆シュルツとの関係
「キシンジャーと違い、私との話し合いのとき、シュルツはとりわけ初めのころ、やや慎重で、事前に会談のテーマのほとんどについて、大統領と打ち合わせをしなければならなかった。そのうえ、過去に『チャンネル』の主要議題であった軍縮交渉の細かいニュアンスを彼はマスターしていなかった。シュルツが軍縮交渉に関して私と話し合うとき、いつも専門家をそばに控えさせていた。そうした状況では、秘密の対話は不可能だった。バンス、キシンジャーやラスクのときと違って、彼と個人的な会話をすることはめったになかった。だが、彼とは十分に個人的な友好関係があったとあえて言いたい。全体として、彼は確かに、レーガン政権の真の代表であり、その立場を一貫して強く守った」
◆当惑した撃墜事件
「(83年8月末の大韓航空KAL007機撃墜事件直後)アンドロポフは実際、公式に過ちを認めるつもりだった。しかし、私の同僚で外務次官だったゲオルギー・コルニエンコがのちに私に話したところでは、ウスチノフ(国防相)が書記長に論外だと告げたという。アンドロポフの病弱がそうした決断を躊躇(ちゅうちょ)させた面もあるが、当時、ソ連政府がいかなる過ちも認めることはめったにないことだった。(クリミアで休暇を楽しんでいたところ、KAL事件発生で急きょモスクに呼び戻された)私がウスチノフの部屋に行くと、極東から召還したトップの将校たちをきつく叱責しているところだった。彼の怒りは、ほかにも原因があったが、我々のレーダー防衛システムに穴があいていたからだった。外国機を探知するカムチャツカ半島とサハリンの総合レーダー・システムが工事中であった。ウスチノフが工事を急がせたにもかかわらず、遅れていたため、韓国の旅客機はレーダー網をくぐり抜けて1時間もソ連領内に侵入したのだ。(中略)我が空軍パイロットは、夜間で、シルエットが酷似している米軍偵察機と見分けがつかなかったと報告した。ウスチノフ自身、混乱し、怒り狂っていた」
◆米ソ首脳会談失敗
「(86年10月のレイキャビク米ソ首脳会談について)会談後、私はゴルバチョフと一緒の車で記者会見場に向かった。彼は戦略防衛構想(SDI)に固執したレーガンにひどく怒っていた。それが会談の失敗の主な原因だと、ゴルバチョフは考えていた。ゴルバチョフは記者会見でレーガンを厳しく非難するつもりだったが、彼と一緒にいた我々は彼をなだめようとした。10分か15分車で移動したあと、彼は自制心を取り戻した。ゴルバチョフは我々に言った。レーガンを強く非難するつもりだが、合意に向けての第1歩の代わりに会談は完全な失敗に終わったと記者たちに受け取らせても、将来の会談への道は閉ざさないと。私はレイキャビクの目撃者として、ゴルバチョフはSDIを会談の成功の質(しつ)にしたことで、レーガンと同じくその失敗に責任があると思う。彼は画期的な軍縮計画のよいカードをもっていたので、レーガンのようにSDIに固執していなければ、もっと良いゲームができただろう。(中略)レイキャビク会談総括の政治局会合で、ゴルバチョフはまだレーガンへの怒りを収めていなかったが、彼との会談は結果的にはそれなりの価値があったと言った。第一に、ソ連指導部が軍縮への真剣な討議に、本当に用意があることを世界に示したこと。第二に、予想外にも、核兵器削減について交渉の用意があるとレーガンが示したこと。第三に、米国の欧州のNATOパートナーが、あらゆる犠牲を払ってでもSDIに固執するレーガンの姿勢を批判するだろうこと、であった」
◆昇進より駐米大使
「(86年)3月1日私は第27回党大会出席のためワシントンを離れた。(中略)大会最終日、休憩時間に、ゴルバチョフの警備担当者が私を探していたと言う。すぐゴルバチョフの部屋に案内された。ゴルバチョフと握手を交わすと、単刀直入に彼は言った。私が党中央委書記兼国際局長に選ばれるはずだと。全くのサプライズであった。率直に言って、このうれしい申し出は私に全くピンとこなかった。大使として働くのが好きだということだけで、外国にいたかったのだ。私は米国が好きだったし、今もそうだ。私は(大使の)仕事の比較的な独立性と自主性、そしてモスクワの官僚体制から離れているのが好きだった」
◆未だ謎のソ連崩壊
「ゴルバチョフが85年に引き継いだソ連はグローバル・パワーながら、どこかそのイメージがくすんでいたが、まだ強力で、団結し、世界の2超大国の一つだった。しかし、89年から91年の間、欧州大陸の政治的前線はヨーロッパの中心から1653年のロシアの国境(ロシアとウクライナの合併以前)に東へ移動した。どうしてこんなことが起きたのか? ソ連邦消滅の主因は国内に、つまり政治闘争、我々の無力さ、指導者たちの大きな野心にあった。そして、国民の大半が参加もせず、いまだによく理解できない、信じられないほど早かった一連の国内変動にも。我が国の歴史におけるこうした劇的かつ悲劇的な日々に関する完全で片寄らない研究が待たれる」
「ソ連の運命は国内で決められた。そこでは、最初にして最後の大統領ミハイル・ゴルバチョフが少なからぬ役割を果たした。ローマ帝国から大英帝国にいたるすべての大国は、外部からの圧力ではなく、国内闘争によって、解体した。冷戦では誰も勝たなかった。(東西、米ソ)双方は非常に大きな代償を払ったが、冷戦の終結は我々共通の勝利であった」