報徳学園での日教組活動 父母向け道徳講演を妨害
二宮尊徳精神の学校で
昨年6月1日、スポーツ・学芸共に著名な西宮の報徳学園の依頼を受け、拙著「世界に誇る日本の道徳力・二宮尊徳90の名言」(コスモ21)を中心に講話を行った。
窓口になったのは東京在住の学園理事で、同窓会幹事でもあるY氏であった。何度も丁寧なご連絡を頂き、私も学園の名は知っていたので、喜んでお引き受けする旨返信した。「戦後の日教組による教育荒廃の中で唯一残る希望の灯」と書いて学園を称えた。
学園教師のK先生からも何度も御手紙や学園開設以来の百年を越える歴史を物語る概要なども届き、歴代校長の中に尊徳の孫・尊親も2代目校長として名があり、明治開国に対する官民あげての教育への情熱が感じられて、嬉しかった。
会場の大谷記念講堂は前年94歳で亡くなった前理事長の大谷勇氏の名を冠したもので、東京・ホテルニューオータニの創立者とも聞いた。同学園の歴史が日本の教育を創っていると感じて、期待はさらに大きくなった。役員会で日程が決まり、私も準備を始めた。
ところが父母600人に案内状を配布するのを担当教師が断るという異変が起きた。一教師が学園の発展を願って父母会の協力も得ようと理事会で企画した講演会の案内を断るということが、果たして出来るのだろうか、と不審に思った。
私も教師の経験もあり常に父母の協力のもと学校教育を行って来たから、妙な教師がいるものと思ったが、日程も迫っているのでY氏には「1人でも会場に見えたら話をするのでご心配なく」と返事をし、当日関西空港へ飛んだ。
学園近くに甲子園球場があり、間もなく着いた大谷記念講堂の入り口には少年金次郎像と、成人した尊徳像が並び、私たちを出迎えてくれた。控室で関係者に挨拶し、そのまま会場に入り演壇に立った。
2000人は入ると思われる広々とした会場には階段式椅子が並び、200人近い人々が既に前方に腰掛けていた。Y氏に促されて私は話を始めた。
尊徳の言葉の「一円融合」、「報徳推譲の精神」、「心田開発」等、幕末の圧政に苦しむ農民を励まして藩財政を建て直した尊徳の畏業は無欲というより、正義の大欲であった。「野州聖人」と呼ばれ、内村鑑三の英文で世界にも紹介された尊徳は、第2次大戦の終戦の呼び掛けにもその名が使われた等々、2時間余の短い時間だったが、幾つかの質問も交えながら話し終えた。
宿泊のホテルロビーに落ち着いてY氏が笑いながら話した。「学園に日教組がいたのです。父母(PTA)担当がその教師でした。……」。
私は驚いた。「まさか」の日教組が報徳学園にいて、私の日教組批判を知って妨害したのだ。私の生涯の使命として、教育正常化は続けていた。日本国に住み、その恩恵を受けながら反日教育をする日教組の革命思想は許せなかった。それを彼は知って反対したのだった。
聴衆は無関係な住民
Y氏はさらに語った。「その教師は来ないかと思ったら来ていました。後ろの席で最後まで聞いていましたよ」。集会に集まった人たちは近所の家にチラシを配り、学園に無関係な人達だったのだ。尊徳の教えを元に百年余の歴史を積み上げた報徳学園に、日教組がいたことは大きなショックだったが、彼は父母にそれを知られるのを恐れたのだろう。しかし既に学園にその徴候が現れ、教職員の怠慢が見え始め、理事会でそれが話題になり、私の著書を読んだY氏が講演会を提案したのだった。
日教組はかつての共産国ソ連の指示を受け、日本共産党と社会党(現民主党・社民党)により日本の共産化を目的につくった教員労組だ。それが未だに存在している。
報徳学園の一件で私は戦後政治の弱点を知った。政治は教育を変えていないのだ。昭和50年渡米し米国の教育を視察した。既に教員組合は解散し共産党は非合法化されていた。敗戦の負の遺産は、教育と政治にまだ残されていた。