尖閣諸島の集落「古賀村」は大型台風で消失
「尖閣諸島文献資料編纂会」が気象資料で明らかに
沖縄県石垣市の尖閣諸島に関する歴史資料を集めている「尖閣諸島文献資料編纂(へんさん)会」(新納(にいろ)義馬会長)はこのほど、地元漁業者の聞き取り調査を行い、集落の実態に関する報告書「尖閣研究」を発刊した。その中で、1912年に突如として尖閣諸島から集落「古賀村」が消えた理由が、大型台風であったことを当時の気象資料を基に明らかにしている。(沖縄支局・豊田 剛)
地元漁業者に聞き取り調査、報告書「尖閣研究」を発刊
古賀村の残存の遺構を保全・復元へ、編纂会が働き掛け
尖閣諸島文献資料編纂会は日本財団の支援を得て、約8年の間で4回にわたり漁業関係者への聞き取り調査を行った。その集大成として「尖閣研究」と題する尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告をまとめた。
「尖閣研究」の中には、日本青年社の松田昌雄氏が1996年、魚釣島に国旗を掲揚した上で、古賀村顕彰碑と魚釣島慰霊碑を建立した本人談が掲載。最後の尖閣諸島の学術調査をした新納会長と調査員による対談も紹介されている。注目すべきは、商人・古賀辰四郎氏による尖閣諸島の開発から衰退までの出来事である。
戦後の尖閣諸島の学術調査は、1950年、高良鉄夫琉球大学教授による魚釣島単独調査を皮切りに17回行われた。しかし、80年以降は開催頻度が少なくなり、最後の上陸調査は1995年だ。
尖閣諸島海域は、明治時代から国内有数の漁場として活用され、戦後も1960年代から90年代まで盛んに漁業が行われていた。同海域で営まれていた漁業は、カツオ漁・鰹節製造、マグロはえ縄、カジキ突棒・曳縄、ダツ・トビウオ追い込み、サンゴ網業などだ。調査に関わってきた者の多くは死去し、漁業者が高齢になったことから、本格的な聞き取り作業は今回が最後となった。
海上保安庁が24時間体制でパトロールを始めたのは、漁師が2011年、県庁に要請したのがきっかけだ。沖縄県は「海の底の環境を破壊する」という理由でサンゴ網の漁業を禁止しており、高価な潜水艇を使って獲(と)るしかないのが現状だ。尖閣諸島海域での漁業は認められていないことを後目に、中国がサンゴ網でサンゴを乱獲しているという実態が赤裸々に描かれている。
与那国漁協の西銘成吉氏の証言によると、「サンゴ泥棒している台湾船は、沖縄を行き来している華僑グループが関係しているようだ」と説明。「日本政府と沖縄の対応が甘いから攻められる」と苦言を呈している。
今もなお、中国海警局の船の領海侵入が相次いでいる。尖閣諸島をめぐる安全保障環境が厳しくなった主な原因は、尖閣諸島を実効支配していないことによることが、数々の資料によって読み解くことができる。
日清戦争終盤の1895年に日本が尖閣諸島を正式に領土編入すると、政府から開拓許可を受けた古賀氏が尖閣諸島に渡った。尖閣開拓事業はその後10年ほどを経て発展し、人口は240人、戸数は99軒になった。①羽毛採取及びはく製②カツオ漁・鰹節などの漁業Ⅲ開墾および穀物栽培――が主な事業だった。
ところが古賀氏は15年ほど暮らしただけで離れてしまったのだ。その理由は何故か。それを解き明かす資料が「尖閣研究」の中で、「台風被災による撤退説と遺跡調査の提言」の項目で記されている。
1912年に大きな台風が襲来し、わずか一夜にして壊滅的な被害を受けたと、当時の石垣島測候所の職員、瀬名波長宣氏が47年、独自に作成した気象資料から読み解くことができる。この資料を同編纂会の委員が沖縄県立図書館から見つけた。そして、魚釣島の人口は13年にはわずか52人になった。しかも、派遣された男性だけで、もともと住んでいた人々は全員引き払っていたことが分かった。
これまで、採算が合わないため撤退したとか、アホウドリを乱獲した影響で資源が枯渇したなどの憶測があったが、「大きな台風が尖閣諸島を襲って、古賀村は壊滅してしまい、古賀は列島経営から手を引かざるを得なくなった」とこの報告書は結論付けている。古賀氏が引き払うと、魚釣島では入村者が飼っていたネコがアホウドリを絶滅させ、緑に覆われていた地面の岩肌がむき出しで荒れ放題になった。
編纂会は、「もし古賀氏が被災後にコンクリートの建物を建てていれば、日本屈指の漁業王国になり、その結果、実効支配ができていた」と推測する。残っている古賀村の遺構は「沖縄県の城(グスク)建築技術があれば復元し保全できる」とする同会は、関係各所に働き掛けたい考えだ。