「社の方針」で連載中止、表現の自由奪った新報

歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実
上原 正稔 (37)

 1996年6月に筆者が発表した「沖縄戦ショウダウン」の中で、沖縄タイムスの『鉄の暴風』を徹底的に批判したことがあった。その時、タイムスとライバル関係にあった琉球新報の記者たちは「よく書いたな」と喜んでくれたものだが、2006年には事情が一変していた。

 05年には新報の記者の中で唯一、筆者とウチナーグチ(沖縄の方言)で話す親友の嘉数武記者は編集長に昇進し、張り切っていた。彼は、筆者が「1フィート運動」や「沖縄戦メモリアル運動」、すなわち「平和の礎(いしじ)」で大田昌秀氏や石原昌家氏らエセ文化人、知識人らにヒドい目に遭っているのを熟知していたから、「これから夕刊に、君のために特別な枠を用意するから、沖縄戦について何年でも自由に書いてくれ」と(ウチナーグチで)話した。筆者は勇気百倍、ドンドン書いてやるぞ、と武者震いした。

 06年4月から年末まで「戦争を生き残った者の記録」を発表。07年5月から「パンドラの箱を開ける時」を発表し、その第2話で「慶良間で何が起きたのか」を発表することになっていた。それは当然、「沖縄戦ショウダウン」の長い注釈「渡嘉敷で何が起きたのか」を発展させ、慶良間の島々の戦闘と「集団自決」の真相について40~50回にわたる長編で、包み隠さず明らかにする予定だった。

 ところが6月15日、連載担当員として嘉数編集長が新たに任命した前泊(まえどまり)博盛氏(現沖縄国際大学教授)から呼び出しを受けた。琉球新報本社7階の空き部屋に通されると、そこには前泊、玻名城(はなしろ)泰山(現社長)、枝川健治、上間了の4氏が緊張した表情で待っていた。4人とも筆者はほとんど話したことはなかった。

 初めに筆者の横に座った前泊氏が「『慶良間で何が起きたのか』は掲載しないことにした」と告げた。大喧嘩(げんか)が始まった。「一体、どういうことなのか、ちゃんと説明しろ」と筆者が言うと、前泊氏が「社の方針だ」と説明した。筆者はカッとなって「お前らは文化部ではない。何の権利があるんだ。社長も知っているのか」と言うと、「社長は知らなくとも社の方針は社の方針だ」との返事。

 筆者は「ぼくには憲法で保障された表現の自由がある」と、新聞社がよく使う「表現の自由」を出すと、さすがに4人組はウロたえた。

 筆者が「明日にも記者会見を開くぞ」と怒鳴ると、正面の玻名城氏が青くなって「記者会見だけはやめてくれ」とオドオドしながら言った。玻名城氏はその後、編集長に駆け上がり、今では社長だ。新報の現体質がよく分かる裏話だ。