来年は祖国復帰50周年、記念の映画を制作へ
実行委を立ち上げ、沖縄復帰の真相や意義を世界に発信へ
来年5月15日は沖縄県が日本復帰して50周年を迎える。これを記念し、復帰をテーマにした映画を制作するための実行委員会がこのほど立ち上げられ、その機運を高める大会が沖縄県内で行われた。映画を通じて、沖縄復帰の真相や意義を世界に発信するのが狙いだ。(沖縄支局・豊田 剛)
米軍基地と自衛隊を懸念した沖縄返還協定批准貫徹運動
1972年5月15日、敗戦による米国の占領統治が日本の独立(52年4月)後も続いた沖縄が日本に復帰した。敗戦により施政権を失った土地を27年で戦わずして取り戻したことは世界的に見ても「奇跡」と言える偉業だ。
ただ、71年6月に日米両政府が沖縄返還協定を締結し、復帰が現実のものとなると、沖縄に米軍基地が残ることと自衛隊が配備されることを懸念する革新勢力が復帰反対を叫んだ。
この動きを阻んだのが教職員会を脱退した教師らを中心に立ち上げられた「沖縄返還協定批准貫徹運動」だ。
今年8月1日、浦添市で開かれた実行委の発足大会では、復帰当時、教員だった3人の男性が登壇し、当時を振り返った。
そのうち、上原義雄氏(84)は「教職員会を抜けた教師や父母が祖国復帰批准貫徹大会を開き、79団体から署名をもらって、これをもって8人が上京し、国会で訴えた。これがなければ沖縄は復帰できなかったと思う」と力を込めた。
上原氏は、初代沖縄県知事の屋良朝苗氏の変節ぶりに驚いた。「長い間、教職委員会の会長を務めて、日の丸を掲げる運動を一所懸命やったが、その約20年後、知事になると復帰反対の陳情を持ってきた」。「国会は県民よりも知事の声を聞いたかもしれないと思うとゾっとする」と振り返った。
引き続き、仲田稲造氏(91)は、「米軍支配下でも心の中に大和魂があり、日本に復帰したいというのが県民の本能的な願いだった。思想も哲学もなく、日本人として日本に復帰したかった」と、当時の気持ちを語った。
復帰当時は基地や軍隊に対するアレルギーが強く残り、復帰とともに配備された自衛隊は差別の対象となった。元自衛官の大山孝夫那覇市議は、「2000年ぐらいまでは成人式参加が認められない状況があった」と振り返る。「今では迷彩服や作業服で通勤できるようになり、子供へのいじめもなくなった」と感慨深げに話した。
脚本・監督の野伏翔氏「日本人の心を語り継いでいく」
映画は、復帰50周年を迎える来年5月15日より撮影が始まる予定だ。脚本と監督は、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんを題材にした映画『めぐみへの誓い』を監督した野伏(のぶし)翔氏が務める。祖国復帰批准貫徹大会のメンバーを中心に描き、「沖縄の祖国復帰をテーマに、愛情が根底に流れる作品になる」という。
「『祖国復帰運動の心』は、沖縄の原点でもあり、日本人の原点。この心を将来にわたり、語り継ついでいきたい。映画を通じて、映画によって沖縄が救われた、日本と沖縄の分断を防ぐことができたと言われるようにすることを目標としている」
総合プロデューサーを務める仲村覚(さとる)氏は、制作の動機をこう語った上で、「沖縄の革命闘争を阻止したのが、批准貫徹運動で、まさに第2の沖縄戦だ」と指摘。「沖縄がもともと日本人であることを知らない人が多い。英語や中国語などの字幕を付けて多言語で世界に発信したい」と抱負を語った。
映画作成に使命感と責任感、郷土愛をドラマで伝えたい
沖縄戦を振り返ると、同胞意識があり、沖縄も共に戦争を戦ったという事実がありながら、それが捻(ね)じ曲げられてきた。作家・曽野綾子さんの慶良間諸島で集団自決命令はなかったというリポートを読んだが、常識としてその反対が信じられていた。共に戦った意識があれば少しは変わるのではないか。特攻慰霊碑を造ってもいいのではないか。50周年の映画を作ることに使命感と責任感をもって当たりたい。
現在の沖縄は危機的な状況にある。国連を通して中国が沖縄の先住民族勧告を7回も行っている。中国によるウイグルやチベットの支配は人類の進歩から逆行すること。民間のできることは、同胞の絆を固めていくことだ。
この映画は大きなチャンスだ。郷土愛は学問や情報だけではなくドラマで伝えられる。感情に訴えない限りは力がない映画になってしまう。当時、教職員会を脱退した教員の葛藤や覚悟、さらに、沖縄戦、空襲、日本兵との交流、日の丸についてのエピソードなどを含め、愛情が全面に出る映画にしたい。(談)
= メ モ =
沖縄返還協定批准貫徹実行委員会
1971(昭和46)年6月17日に日本と米国は「沖縄返還協定」を調印し、日米両国の議会で協定の批准を待つ状況下で、沖縄教職員会など革新勢力で構成される「祖国復帰協議会」は一貫して同協定に反対し続けた。これに危機感を覚えた教職員5人が教職員会を脱退し、「沖縄返還協定貫徹実行委員会」を立ち上げた。同年10月に数千人規模の県民大会を開いた上で、代表団が上京し、政府・自民党に早期批准を要請した。その結果、11月17日に自民党が同協定を批准した。







