地域に愛される「首里城」を再建してほしい
首里出身の新垣淑豊沖縄県会議員に聞く
2019年10月31日未明、沖縄県那覇市の首里城正殿で火災が発生し、正殿や北殿、南殿など主要施設を焼失してから1年になる。首里地区の住民にとって首里城は象徴的な存在で、焼失した衝撃は大きい。首里出身の新垣淑豊県議に、首里城との地元の関わり方や防災、再建の在り方について聞いた。(聞き手・豊田 剛)
防災対策には覚悟が必要、交通渋滞や地元との隔たりなど課題が露呈
――首里城火災の一報はどのように受けたか。
県議会の視察で北陸を訪れていた時だった。視察を切り上げて沖縄に帰った。首里城の正殿が完成したのは1992年だが、首里城と一緒に成長したような感じはあった。今までそこにあり見慣れた建物がなくなっているという不思議な感覚を覚えた。
――地域住民にとって首里城はどのような存在か。
周辺に住んでいる人々にとっては歴史文化であり象徴。他方で、迷惑施設と考える向きもあったことは事実だ。ほとんどの観光客は車で訪れて、首里城公園の駐車場に車を止めて、首里城を見学して帰る。
首里城は、地域に経済的な恩恵をほとんどもたらしていなかった。首里城火災で生活に支障を来したという人は思ったよりも少なかったのは事実だ。
首里城につながる主要道路、龍潭通りには、寺社の参道のような役割はなかった。首里城を往来する車で周辺道路は慢性的な渋滞が起きていたが、火災の後は交通渋滞がなくなった。地域との隔たりがあったのだ。火災は、こうした課題を浮き彫りにしてくれた。
――どう再建するのが望ましいか。
私は長野県松本の大学(信州大学)に通ったが、松本城は地域の住民が憩いの場所として使い、人々がボランティアで掃除をしていた。
それと比べて、首里城は沖縄美ら島財団が管理しているという性格上の問題もあるが、地域が関わる度合いがあまりにも足りなかった。首里城祭りなどのイベントで財団にサポートしてもらうことはあれど、人事で職員がよく入れ替わるため、継続して徹底的に地域に向き合う人はいない。
再建する際は、地域の人々が気軽に集えるような場所にしなければならない。そして、財団には首里城と地域を結び付ける役割を担ってほしい。
――首里城火災の再発防止策を協議する第三者委員会「首里城火災に係る再発防止検討委員会」(委員長・阿波連光弁護士)は9月、中間報告をまとめた。責任の所在について曖昧なまま幕引きしそうだ。
県は一義的に責任を負う。(首里城公園は)国所有で県が(指定して)管理するのが沖縄美ら島財団。(昨年)国から沖縄県に管理が移管されたが、それで管理の方法が変わったわけではない。
火災発生が想定されていなかったのが最大の問題。実際に火災したらどうするかというリアルな想定とそのための訓練が不十分だった。
姫路城は火災保険を掛けていないという。燃えてしまえば終わりであり、覚悟を持って火災対策をしているということだ。
首里城は歴史的に何度も焼失してしまっているため、こうした覚悟や思いが足りない。焼失した首里城は30年近くかけて(再建)できたが、当時、復興期成会の多くの人の思いが灰になってしまったのは事実。今後6年間、それ以上の思いを掛けてつくり、地域に愛されるものを完成してほしい。
(インタビューは9月16日に実施)
= 首里城火災の検証と今後 =
首里城火災の再発防止策を協議する第三者委員会「首里城火災に係る再発防止検討委員会」(委員長・阿波連光弁護士)は9月、中間報告を発表し、正殿などの建築物は木造であることや密集して屋根伝いに延焼しやすい配置であることから、「火災に対して非常に脆弱(ぜいじゃく)だった」と指摘。それにもかかわらず、夜間火災を想定した警備員らの訓練はされておらず、「初期消火にも課題があった」とした。消防車が近くまで乗り入れることができなかったことも問題視した。
同委員会は、来年3月末に最終報告を提出する。
政府の計画では、2022年に再建に向け着工する計画で、26年の竣工(しゅんこう)を予定している。その際、復元を目指す正殿の構造材を国産ヒノキとすることや、スプリンクラーの使用方法や警備体制の強化など、政府や県の専門家会議で議論が進んでいる。
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新 垣 淑 豊 (あらかき・よしとよ) プロフィール
1975年8月、那覇市生まれ。父親は琉球菓子「ちんすこう本舗新垣菓子店」の創業者。国立信州大学卒業後、専門学校で菓子作りの基礎を学ぶ。その間、フランスへ留学・研修し、2001年に沖縄に戻って家業の企画・営業を担当。17年、那覇市議会議員に当選。20年に県議選に出馬し、初当選を果たす。