アクティブ・ラーニングの危うさ
不十分なら学級崩壊も
北海道教育大学札幌校学校臨床教授 横藤 雅人氏に聞く
文部科学省(以下、文科省)が2017年2月に発表した小中学校の学習指導要領改訂案には、それまで使っていたアクティブ・ラーニングの文字が消え、それに代わって「主体的、対話的で深い学び」という言葉が躍っている。もっとも、どちらも意図するところは同じだが、そのアクティブ・ラーニングに危うさを感じる人も少なくない。北海道教育大学札幌校の横藤雅人・学校臨床教授もその一人。アクティブ・ラーニングの危険性と課題などについて横藤雅人教授に聞いた。
(聞き手=湯朝肇・札幌支局長)
問われる先生の力量
課題を深めアドバイスを
横藤先生は以前からアクティブ・ラーニングに対して危うさを指摘されていました。それはどの辺にあるのでしょうか。

よこふじ・まさと 1955年北海道生まれ。78年、北海道教育大学教育学部卒業。札幌市立小学校教諭、教頭、校長として勤務。2016年から現職。著書に『子供たちからの小さなサインの気づき方と対応のコツ』(学事出版)『5つの学習習慣』(合同出版)など多数。
私はいわゆるアクティブ・ラーニングを全面的に否定するつもりはありません。事実、私が大学生を相手に行う授業や本を紹介するブックトークを行う際には、アクティブ・ラーニングの手法を取り入れています。そもそもアクティブ・ラーニングとは、その文字のごとく能動的な学習ということ。教師による一方的な講義ではなく、児童生徒、学生が主体性をもって学習に参加し対話や工夫を凝らし、表現することで、知識を増やし協働性を養い、表現能力を高めるという狙いがあります。しかし、不十分なアクティブ・ラーニングには大きな危うさがあると私は考えています。
それはどういうことでしょうか。
アクティブ・ラーニングの本来的な意味を理解せずに、単なる活動主義に陥る危険があるということです。不十分なアクティブ・ラーニングを行うことで授業中に喧嘩やさぼり、私語が増え、不登校やいじめの増加、さらには学力の低下につながるといった弊害が生じかねません。具体的には、こういう例があります。調べ学習で協力し合いながら一つのテーマに取り組む活動を始めたとします。先生は各個人が主体的にテーマに向かって取り組んでいると思っています。しかし、よく見ると何も調べずに他の子の調べたものをただ見ているだけの子やボーッとしている子、ふらふらと教室内を歩き回っている子がいます。比較的熱心に調べている子にも新たな知識の獲得や思考の深化による表情の輝きが見られない。そうした授業が続くと、その学級は崩壊に向かっていくでしょう。
文科省がアクティブ・ラーニングを推奨し始めたのが2012年ごろ。以来、アクティブ・ラーニングという言葉が独り歩きしました。昨年、ある県のいじめ対策協議会の主催で、190の小中学校から集まった220人近い教師と教育関係者に講演した際、出席した方に「いじめや学級崩壊の全くない学校はありますか」と質問すると、手を挙げる人は一人もいませんでした。そうした傾向は道内も同じです。今後もアクティブ・ラーニングを続けていけば、火に油を注ぐ形でいじめや不登校、学級崩壊はさらに増えていくと思っています。
学習指導要領ではアクティブ・ラーニングという文字は使われなくなり、その代わりに「主体的、対話的で深い学び」という言葉になっています。アクティブ・ラーニングの課題はどこにあるのでしょうか。
文科省はアクティブ・ラーニングという言葉をやめ、現在は「主体的、対話的で深い学び」を前面に出して指導しています。問題は「対話的」の部分。「主体的、対話的で深い学び」のうち、主体的と深い学びは、それを目指すという意味で方向目標ですから、さほど害はない。しかし、対話は手段です。方向目標に比べて手段は目に見えやすいですから、速やかに手段が目的化して形式のみの活動になる可能性がある。つまり、「形を整えればいいのでしょ」というように形式主義、活動主義に陥りやすいわけです。教育は手段を目的化すると混乱します。
対話が生産的なものにならないということですね。
対話には目的があります。「生徒たちが何でもいいから話していればいい」というものではありません。話し手が自分の考えを相手に伝える際に、言葉を選ぶことで思考が整理されたり、伝えたことで相手の反応、表情によって自信を得たり、あるいは、もっと言葉を足さなきゃとか、と軌道修正したりします。また聞き手は、自分と同じ学び手から聞き、先生から教わるのではなくて、同じ立場の人が自分と違う意見や見方を持っていることに気づきます。同じ資料を使い、同じく先生の話を聞いていたのに違う意見がある。そういう学びを通して学びの世界が広がるのが対話の良さです。そうした対話の意義を知らずに「グループで話し合いましょう」と言っても、子供たちは「いったい何話すの?」から始まって、対話が行き詰ってしまうケースが非常に多い。つまり課題が全然うまく回っていないわけです。
その辺のところを文科省の方はよく分かっていて、以前から、「探究的な学習における児童生徒の学習の姿は繰り返しの中で育っていく」と提唱しています。つまり課題の設定がしっかりなされ、情報の収集がされ、そのいっぱい集めた情報を整理・分析し、系統立ててまとめ、表現し対話を深めていき、一区切りついたところでさらに課題を深めていく。そうしたスパイラルな取り組みが重要だというのです。課題がはっきりしていれば、例えば、グループで相談しようとしても、情報の収集を行うときに、「誰がそう思っているの?」「以前にこういう事例がある」「そんな見方があったのか」と対話が深まっていきます。ところが、課題の設定がモヤッとしている段階で、ただ「話し合いましょう」となった場合、せいぜい各人が自分の意見を言うだけで、「先生、話し合いは終わりました」で終わってしまう。スパイラルな学びが成立しない。形だけの「主体的、対話的で深い学び」となっているわけで、これでは子供にとってはつまらない授業となってしまいます。
スパイラルを成立させるには先生の力量が問われますね。
課題をしっかり提起し、子供たちが情報収集する場合には、的確なアドバイスをする。全部を教師がするのではなく、子供に任せるところは任せる。とてもシンプルなことです。情報を整理・分析するには、「付箋を使ってみては?」とか、「フィッシュボーンって知っているかい?」とか、一人ひとりの経験に合わせて声を掛けてあげる。そうして手間暇かけて作った課題に対して子供たちは生き生きと活動・表現します。ほかのチームが工夫した発表などを聞くと、「先生、もっとやりたい」という言葉が出てきます。ある意味で「主体的、対話的で深い学び」の理想とするところは一区切り終わった時に、「先生もっとやりたい」という言葉が出てくるかどうか、に懸かっていると言えます。そこが先生の力量ですね。





