石川県出身の文芸家・加賀大介の秘めた想い

 夏の高校野球で、甲子園球場に流れる大会歌の「栄冠は君に輝く」は、球児たちを奮い立たせ、高校野球ファンの胸も熱くする。作曲は、現在放送中の朝ドラ「エール」の主人公・古関裕而(1909~89)、作詞は文芸家の加賀大介(1914~73)だ。歌詞を読むと、いちずに白球を追い掛ける若人の姿が生き生きと表現され、作詞者の想(おも)いを伝えている。(日下一彦)


夏の高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」、真の作詞者

 今夏の第102回全国高校野球選手権大会は新型コロナの影響で、中止となる公算が大きい。主催する日本高等学校野球連盟では、20日、大会運営委員会を開き、最終決定する方針だ。残念なことではあるが、現状では、中止はやむを得ないだろう。

石川県出身の文芸家・加賀大介の秘めた想い

夏の高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」の作詞者、加賀大介(昨年、地元で開かれた「加賀大介展」で)

 大会歌を作曲した古関裕而は、周知の通り、早稲田大学の「紺碧の空」や慶応義塾大学の「我ぞ覇者」、さらに東京オリンピックの入場行進曲などを手掛け、躍動感あふれる曲が大きな感動を呼んでいる。「君の名は」「長崎の鐘」などの流行歌でも広く親しまれてきた。

 一方、作詞した加賀大介は、ほとんど知られていない。大会歌は全国5252篇の応募の中から加賀の詩が選ばれたが、事情があって別人の名前で応募したため、当初、彼の名前が広まることはなかった。

 加賀(本名・中村義雄)は石川県出身の文芸家で、自身も甲子園を目指す野球少年だった。大会歌は昭和23年、学制が旧制中学から新制高校に切り替えられたのを機に、朝日新聞が募集した。加賀は当時の婚約者(後の妻)の名前を借りて応募し、最優秀作品に選ばれたのだった。それが「夏の甲子園」で、今日まで歌い継がれている。

不運にも右足を失い甲子園への夢を絶たれた野球少年

故郷の石川県能美郡根上町(現・能美市)の根上野球場に立つ「栄冠は君に輝く」の歌碑

故郷の石川県能美郡根上町(現・能美市)の根上野球場に立つ「栄冠は君に輝く」の歌碑

 大正3年、石川県能美郡根上町(現・能美市)で加賀は生まれた。元大リーガーの松井秀喜さんと同郷で、小学校の先輩に当たる。幼い頃から野球に夢中になり、元気な少年時代を過ごした。ところが、16歳の時に思わぬ不幸が襲った。練習中、右足親指の爪をはがした。そこが悪化して骨髄炎になり、不運にも、膝下を切断する大手術となり、右足を失ってしまった。

 松葉杖(づえ)の生活となり、甲子園への夢を絶たれた加賀は、以前から抱いていた文芸の道に進む。地元で短歌や演劇の会を主宰し、脚本を書くなど、自宅で療養しながら詩作に励んでいた。そんな矢先、一片の新聞記事が婚約者の高橋道子から届いた。それが「大会歌」募集の記事だった。

球児たちの姿に自らの少年時代の想い出を重ねる

 大会歌誕生の秘話をつづった『ああ栄冠は君に輝く』(手束仁著、双葉社)によると、便りを受け取った夜、「寝床で歌の構想を練る大介の脳裏に、白球を追った少年時代の風景がよみがえった。そして、深い眠りに入る一歩手前で、『ああ、栄冠は君に輝く』というフレーズが浮かび上がった」という。白球を追い掛けた自らの少年時代の想い出、そして断念せざるを得なかった甲子園への憧れが走馬灯のように流れ、大会歌を生んだ。

 婚約者の名を借りたのは、当時、加賀はすでにプロの文筆家だったため、懸賞金目当てと思われるのを嫌ったからだという。昭和43年まで「作詞中村道子・作曲古関裕而」で表記されていたが、第50回大会を機に本人が真相を公表して「作詞加賀大介」と改められた。

 道子さん(94)によると、加賀は「甲子園に行きたい」を口癖にしていたが、ついに一度も足を運ぶことなく同48年、6月21日、58歳で生涯を閉じた。平成元年には、地元の根上野球場にひっそりと歌碑が建立された。

 「毎年、大会歌を聞きながら頑張って生きてよかった。夫は大会歌とともに語り継がれ、皆さんに見守られて幸せな人だ」と振り返り、歌詞の中で最も好きな箇所は3番という。そこには「空を切る 球の命に 通うもの 美しく匂える健康」とある。球児たちの躍動する姿に、野球に打ち込んだ自身の青春を重ね合わせたのだろう、加賀の想いが伝わってくる。