弔い合戦の歴史戦、北方領土の主権は譲れない
先日、中村登美枝さん(92)の訃報を受けた。
2次大戦終戦の1945年、19歳の中村さんは朝鮮北部に侵攻したソ連軍に追われ、朝鮮最北端から10カ月かかり38度線にたどり着く。途中で両親が死亡、3~16歳の孤児12人(途中合流も多く最後は約50人)を引率しての大逃避行だった。
避難民にとり最大の恐怖が、銃を手に「女を出せ」と押し掛けるソ連兵の婦女暴行と略奪。中村さんも途中の避難民収容所にいた際、ソ連兵に強制連行されかけ、避難民仲間が傍の寺の鐘を大音声で鳴らし、危機一髪助かった。実際に収容所から連行され、翌日返された女性たちがその夜中に自殺した。多い時は毎夜2~3人も。「多くが便所近くで石油缶を足台にし、ポーンと蹴って首を吊(つ)った。缶が転がってカラカラカラーンと音を立てる。深夜それが聞こえるとああまたと判(わか)りました」
十数年前、朝鮮北部引揚者の体験談を集めた。彼女の話が特に強烈で、私の耳の奥にもカラカラ音が残った。当時の朝鮮北部や満州でのソ連兵の婦女暴行は、20世紀で最悪の部類と思われる。もちろん謝罪はない。少女像もない。中村さんは体験記をまとめ、メディア、演劇、講演会などを通じて語り続けた。彼女の死で、ほぼ最後とも言える重要な生き証人の語り部がいなくなった。歴史が埋もれる。(人の好〈よ〉いソ連兵も少しいた。8歳で満州にいた友人の話だが、彼は酒好きソ連兵に怪しげなアルコールを売った。得意客と友達になり、危険が迫った時に護〈まも〉ってもらったとか)
火事場泥棒的戦勝は、共産主義大国ソ連の非道、国際法無視、拡張主義を増長させた。終戦後、日本兵ら約60万人を不当に氷のシベリアに抑留し強制労働させ、1割を死亡させた。この問題も、93年に来日したエリツィン・ロシア大統領が「非人間的」と認め簡単に謝罪しただけだ。
安倍首相は「戦後日本外交の総決算」で、北方領土返還交渉に熱心に取り組んでいる。対ソ連・ロシア歴史戦の天王山だ。先週の施政方針演説でも「首脳間の深い信頼関係の上に、(平和条約締結後に歯舞、色丹2島を引き渡すとした)1956年の日ソ共同宣言を基礎として交渉を加速する」と宣言した。
だが、首相はソ連末期以降で最も難儀な相手と対峙(たいじ)している。
私は駐米記者だった90年、訪米したゴルバチョフ大統領が「北方領土問題で日本と取引したい。わが方の譲歩で経済協力が欲しい」と打ち明けたと、国務省筋から聞かされた時のわくわく感付き(特ダネ期待もあって)衝撃を忘れない。56年宣言の後、ソ連側は交渉の扉を閉ざしてきたのだから。
ソ連崩壊後の93年、エリツィン大統領が、4島の北方領土帰属問題を解決した上で平和条約を早期締結するとの東京宣言に署名した。だが05年、プーチン大統領は「島々は大戦でロシア領になった。領土問題など無い」と態度を再転換した。昨年11月と先月の首脳会談でも強硬のまま。東京宣言は外された。
領土主権問題断固否定の相手と本当に深い信頼関係が築けるのか。最近も近隣国の主権を侵害している相手だ。2島、プラスα、4島……賛否様々だが、「2島返還(引き渡し)すら難しい。排他的経済水域や領空通過権はどうなるか。露ペースにはまったらダメだ」と懸念する声は多い。
はまったら対日領土戦、歴史戦を仕掛ける韓国や中国も、日本の弱さを再確認して喜ぶだろう。
この歴史戦は、自殺した婦女やシベリアの死者ら、ソ連軍侵攻の犠牲者全員の弔い合戦でもある。史実と主権を曖昧にしたら、全員の霊が泣く。
(元嘉悦大学教授)






