スポーツとさわやかさ、韓弼花選手を応援したころ
北朝鮮と冬季五輪。思い出すのは北朝鮮が初めて五輪に選手団を派遣した1964年インスブルック大会の女子スケート3000㍍で、銀メダルを獲得した韓弼花(ハンピルファ)である。私は朝鮮戦争(1950~53年休戦)で一時、半島全部が北朝鮮になったら大変だと子供心に心配したぐらいで、親北朝鮮では全くなかった。
だが、韓選手の活躍には強く印象付けられた。当時の五輪報道は今よりずっと少ない。韓選手の紹介記事もろくになかったが、あの朝鮮戦争で荒廃した国土、厳しい環境の中で小さな女子選手がよくも実力を磨き、アジア選手2人目の冬季五輪メダリストになったものだと、一種のさわやかさを感じ応援したくなった。
北朝鮮の人権抑圧も拉致も核開発も、まだ知られていない時代。国民を核心、動揺、敵対の3階層に分類する出身成分差別制も、未完成だったという。
その後、北朝鮮の「ならず者国家」化、情報鎖国ハリネズミ化が進んだ。スポーツ選手、特に海外に行くような選手は、出身成分や金一族への忠誠心が最重視されることになったようだ。韓国内の大会に派遣された選手や美女応援団員が、見聞事実を帰国後口外しない誓約を破れば、即収容所送りとか。
新聞の外報記者時代、私は五輪大会もカバーした。内戦や飢餓、政治問題を抱えた国の選手の取材などが多かったが、冬季大会では84年サラエボ五輪に参加したレバノンの男子スキー選手4人のことが忘れ難い。
レバノンは内戦の真っ最中で国家崩壊の危機だった。反政府軍の首都総攻撃が始まる寸前、何とか脱出して駆け付けた彼らは、終了後帰国できるかどうかも不明だった。
実力的にはあと一歩どころかあと三歩で、目標の50位以内も無理だったが、出場後皆笑顔で言った。「参加できた幸せが胸にこみ上げた。この幸せを国民に、子供たちに届けたい」。さわやかな笑顔だった。
2000年代、大学教員の私は、学生と中国や東南アジアの田舎の小学校を訪れ、運動会を開いた。運動の機会の少ない草の根の子供たちにその楽しさを知ってもらう目的だった。息苦しい軍事政権下のミャンマーの村でも、村民の3分の1以上が運動会の見物に集まり、子供たちに熱烈な声援を送り完全に一緒になって楽しんでいた。村全体の愛情に包まれた子供たちを見て、またさわやかな気持ちになった。
北朝鮮にはあの後、スポーツでも何でもさわやかさを感じたことがない。美女軍団も金家姫君の微笑もその対極だ。
北朝鮮が冬季五輪で得たメダルは、韓選手の銀のほか92年の銅だけだが、夏季では、ほぼ毎回1桁台後半のメダルを獲得している。だが、成分を問題にし、他国と比べても草の根無視の北朝鮮は、絶対スポーツ強国になれないだろう。
金正恩朝鮮労働党委員長は、北朝鮮が「世界的な軍事強国」に発展したと胸を張る。たとえ本当に軍事強国になった(それは困るが)としても、スポーツでは、多くの子供たちへの普及という底辺拡大が無ければ駄目だ。それ無しに、人口2500万人の小国が強国になどなれっこない。
口惜(くや)しかったら(前々回のこの欄で使った文言を繰り返して恐縮だが)…核ミサイル問題、経済制裁がどうなるか次第だが、次に北朝鮮が国際スポーツ大会に参加する時には、非エリートの子供たちの応援団を送ってほしい。それが駄目なら、せめてご自慢の馬息嶺(マシンリョン)スキー場に全国の子供たちを順次集め、雪遊び運動大会でも開いたらどうか。子供たちよりミサイルを愛する国の未来は暗いのだから。
(元嘉悦大学教授)











