北方領土返還へ行動を

 北方領土返還要求全国大会が2月7日に開催された。昭和56(1981)年以来、毎年2月7日の「北方領土の日」に東京で開催されている。

 だが、今年の大会は、北朝鮮がミサイル発射を強行した日と重なり、マスコミの報道は少なく、盛り上がりに欠けた。さらに言えば、この大会が毎年、マンネリ化し、「北方領土の奪還に向けての大会」ではなく、「大会を開催する関係者のための大会」と化しているという批判もある。私が過去に大会のお手伝いをしたときの事務局の雰囲気も「関係者のための大会」という感じだった。

 ロシア(旧ソ連)が北方領土を不法占拠して70年以上が過ぎた。このままロシアによる北方領土の固定化を許していいのか。自国の領土を奪われても手をこまねいて何もしない国家は、国家の果たすべき任務を放棄しているのに等しい。日本国民も、もう少し北方領土に関心を持つべきだ。

 日本とロシアの間で初めて国境線が確認されたのは、安政元年12月21日(1855年2月7日)に伊豆半島の下田で締結された日魯通好条約(下田条約)である。

 この条約によって得撫島と択捉島を分けるフリーズ海峡に国境線が画定された。それより南の島々(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)が日本領土とされ、樺太は日露両国民の「混住(雑居)の地」と決められた。

 明治8(1875)年5月7日、日本はロシアと樺太・千島交換条約(サンクト・ペテルブルグ条約)を締結する。この条約第2条には、日本がロシアから譲り受ける島として、占守島から得撫島までの18の島々(千島列島)の名前が明記されているが、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方4島は含まれていない。このことは北方4島が一度もロシアの領土になったことのない日本固有の領土であることを物語る証拠でもある。

 簡単に領土問題が解決しないことは、誰にでも分かるが、政治家、そして、日本国民が一丸となって北方領土奪還に向けた行動を見せなければ、ロシアは本気で交渉のテーブルにつくことはないだろう。

(濱口和久)