桂太郎と宰相の条件
11月16日、拓殖大学で「桂太郎没後百年」のシンポジウムが開催された。
桂太郎は拓殖大学の創立者であり、日露戦争時の首相だ。
日露戦争は、旅順の二〇三高地をめぐる激戦、遼陽や奉天の会戦が示すように一大消耗戦であった。戦費も17億円に達し、桂内閣は国家財政規模の2年分以上を戦費に充てた。人的にも戦費の面からも限界に達し、これ以上の戦争継続は不可能に近かった。
桂内閣は、ロシアと戦争を続けるだけの国力は残っていないことをあえて国民に公表しないまま講和に踏み切ったため、賠償金は取れず、割譲されて得た領土が南樺太だけという結果に、国民の不満が高まる。
日露戦争が終結した明治38(1905)年9月5日、日露講和(ポーツマス条約)に反対する国民大会が東京・日比谷公園で開かれた。大会は大混乱となり、暴徒化した国民は、政府系新聞社、交番、キリスト教会などを焼き打ちした。これが「日比谷焼き討ち事件」と言われるものだ。この時、桂内閣は東京に戒厳令を敷き、軍隊を出動させて鎮圧する厳しい行動に出る。
日本はなぜロシアと講和するのか。勝っているはずの日本が、なぜ徹底的にロシアを叩かないのか。国民が不思議に感じるのは無理からぬことではあった。
「日比谷焼き討ち事件」の責任を取って、桂は首相を辞任するが、その後も2度にわたって首相に就任し、関税自主権の回復による条約改正の業績も残している。
国家戦略として正しい選択をしようとすれば、国民やマスコミから悪魔、独裁者呼ばわりされようが、それを実行するだけの決断力が備わっていなければならない。
世界史に名を残した列強の指導者たちは、正しいと思った選択を実行し、国を救ってきた。桂もその一人であろう。
桂と同じ長州の血を引く安倍首相にも、TPP交渉や、尖閣をはじめとする対中外交では、桂の精神を受け継いで、日本の国益を守る外交姿勢を貫いて欲しい。
(濱口和久)





