「生きる力」の意味再考を
死生観の涵養こそ必要
主語と目的がない戦後教育
子どもたちに「生きる力」を育てることこそ急務だと耳にする。この言葉が公になったのは、20年前の中教審答申である。「子ども達に必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、(中略)こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を“生きる力”と称することとし、これらをバランスよく育んでいくことが重要であると考えた」と謳(うた)われている。
「生きる力の育成」と聞くと誰もが頷(うなず)く。しかし、よく吟味してみると、中教審が「生きる力」と定めた資質や能力は目新しいものではなく、戦後一貫して強調されてきた教育的資質や能力の繰り返しにほぼ等しい。これでは、新しい看板に相応(ふさわ)しい教育的価値や教育哲学を示しているとは言い難い。そのようなことの繰り返しを経て、はや戦後教育の70年が過ぎた。そして、眼前には、個性の没した、内向きの、幼稚で活力のない子どもたちや若者の情景が広がっている。何かがおかしいのである。以下に「生きる力」について3点を申し述べてみたい。
第一は、「生きる力」に主語がないことだ。もちろん、人間の生きる力に決まっているだろうと突っ込みを入れられそうだが、そうであったとしても、やはり戦後教育の議論には各論はあっても本論はなかったと思われてならない。各論とは、「知・徳・体」議論であり、「教育技術と教育環境」議論であり、「生きる力」議論などである。では、本論とは何か。「人間とはどんな存在か」という視点の欠如である。いうなれば、人間観がないのである。人間観への視座なき「生きる力」議論は不毛に帰すに決まっている。
心ある識者は気付いている。例えば、宗教学者の山折哲雄は20年ほど前の国会での教育議論で次のような至言を吐露した。「重要な問題は人間観の問題だろうと思います。一つは、現在の教育基本法に盛られている近代的な人間観というものはもちろん大事だと思いますけれども、それと同時に、あるいはそれ以上に重要な問題が、人間未知なるものという、我々の人間の力を超えた、ある超越的な価値、力というものがこの世界には働いているのだという認識です。その前における人間の謙虚な生き方という問題を踏まえた人間教育、これがおろそかにされてきたのではないかと私は思います」。
第二は、日本人が培ってきた心性から見て、「生きる力」だけの主張は片肺ではないかという疑念である。「生きる力」と「死にゆく力」の両者を表裏一体として学び涵養(かんよう)する死生観が求められていないだろうか。かつて、遠藤周作が語っていたことだが、戦前までは「死に甲斐(がい)」という言葉はあったが、「生き甲斐」という言葉はなかったという。かように、近代までの精神的DNAには、死を見据えた生という感覚があった。別の言葉で表現すると、天を見据えた生という感覚かもしれない。
2人の幕末生まれの日本人の死生観を見てほしい。一人は、今なお日本人が誇りと憧れを抱く西郷隆盛である。西郷は語っている。「我が身は天物なり。死生の権は天に在り、当(まさ)に之(これ)を順愛すベし」。ここには、死生とは人間側に裁量権があるものではなく天物なのであり、人間は天と呼応する関係で生死を捉えなければならないという死生観を垣間見せている。
もう一人は、市井に生きた幕末生まれの女性の臨終を記した新聞記事である。彼女は槍(やり)の御指南役の家に生まれた武士の娘だが、昭和の半ばに88歳で亡くなる前日、床の上から家族全員に正座して合掌し、お礼の言葉を述べて翌日旅立ったという。何と凛(りん)とした生きざまであり、死にざまではないだろうか。死は忌むべきもの、遠ざけるべきものであり、生こそ望ましいもの、近くに置くべきものという人生観で「生きる力」が語られているとしたら、猛省しなければならない時代に来てはいないだろうか。
そして第三である。先に触れた2点(「生きる力」の主語がないこと、片肺であること)の行き着く先は、「生きる力」の目的の消失である。つまり、何のための「生きる力」なのかということに対する内実のなさである。「生きる力」の必要論を読んでいると、背景や状況についての解説で満ちている。2030年には生産年齢人口は総人口の58%にまで減少する、世界の国内総生産(GDP)に占める日本の割合は3・4%にまで低下する、主体的で創造的な人材が育たないと日本はグローバル競争から脱落する等々。この文脈で見るならば、我々が「生きる力」を育てる意味は、GDPへの貢献や競争社会でサバイバルする手段に貶(おとし)められる。果たしてそうだろうか。唯一無二の命としてこの世に呼び出された我々の「生きる力」の目的が、かように経済的価値で括(くく)られてよいものだろうか。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とある。人間は単に心身だけの存在ではなく、Body・Mind・Spiritを有する悠久の存在なのだという全人的な人間観に気付く時代が到来してはいないだろうか。
(かとう・たかし)