住民投票の宴のあと
民族独立の大困難時代
スペイン人と結婚し、バルセロナに住む日本人女性から嘆きメールが届いた。先のカタルーニャ自治州の独立の是非を問う住民投票が、社会と民主主義をいかに破壊したかを訴え、市民戦争にならないか心配していた。
オーウェルのスペイン内戦記「カタロニア讃歌」の1930年代とは違う。市民戦争は杞憂(きゆう)だろう。
だが彼女によれば、右派から極左派まで、独立を叫ぶ政党連合とメディアが、フェイクニュースも織り交ぜ、「税の被害者意識」と「独立決定の権利意識」を思い切り煽(あお)り、違憲の住民投票へ突進した。
ラジオ局に勤めていた夫が放送を指示されたニュースは、独立運動ものばかり。反対派の家は村八分で、子供はいじめられ、社会、家族が大きく分断された。
結果は賛成が90%以上だったが、スペイン政府は断固拒否、欧州諸国もわれ関せず、企業の州外への移転発表も相次いだ。独立派の中心のプチデモン州首相も、独立宣言の約束をあいまいに凍結せざるを得なくなった。その結果、独立派内部でも対立。住民投票は四方八方、対立を招いた。
9月下旬に同様の住民投票を実施したイラクのクルド自治区も、賛成は90%以上だった。しかし、イラク政府は違法と見なし、独立運動の拡大を懸念するトルコやイランなど隣国も警戒を強め、経済制裁が始まっている。過激集団「イスラム国」(IS)との戦闘で活躍し、米国から支持のご褒美を期待したのだろうが、それもない。
11年7月にスーダンから分離し、最新の国連加盟国となった南スーダンは、その半年前の住民投票で98・8%の独立賛成を記録した。ここでは、長年のスーダン内戦が05年に終結、その和平合意でまず自治政府となり、住民投票実施もOKされた。
だがその後は、国境紛争、権力争い、内戦状態、飢餓と続き、世界一貧しく脆弱(せいじゃく)な国となっている。98・8%も権力争いに潰(つぶ)された。
14年にロシアの手の平でロシア編入を決めた、ウクライナのクリミア自治共和国の住民投票は、民族独立と呼び難い。英スコットランドの住民投票は独立反対が多数だった。それらは別として、住民の生活や経済を考えず、闇雲に違法の住民投票をし、予想通りの数字を出しても、住民と民族独立に役立つだろうか。
1960~70年代、「民族解放」は絶対的に輝いていた。
東西冷戦の中で利用された面もあったが、「解放勢力」は善だった。武力闘争現地ルポには、「ゲリラの目は澄んでいた」といった情緒的表現が平気で使われた。澄み具合など計測できないのに。
だが、「解放勢力」の勝利後の暗黒政治、冷戦の変化などもあり、輝きは薄れた。91年に、ワシントンでチェチェン共和国の閣僚に出会った。前年に一方的にソ連邦からの分離独立を宣言していて、その物静かな老紳士は、米国の支持取り付けに駆け回っていたが、米国は末期のソ連と親密になっていたので、駄目だった。チェチェンはその後、紛争とテロ闘争に突入してしまった。
現在も、民族独立運動は世界中に存在している(沖縄にも!)が、その目的達成が今ほど難しい時代はないと言えそうだ。住民投票の効果は疑問でも、世界がテロとの戦いを強める中、武力闘争は一層×だろう。
だが、中央政府側も抑圧だけでは済まない。
難民問題に関わっている私は、来日して難民申請をするクルド人とも会うが、反抗心、警戒心でハリネズミのような若者が多い。クルド側も、トルコ、イラク、イラン政権側も、ハリを減らし、もっと融和的態度や政策を取れないものだろうか。
(元嘉悦大学教授)