デジタル教科書に異議 紙と黒板が教育の基本だ


積み重ねが残らない

 時代は今まさにデジタル化へ急速に進み、新聞やテレビなど既存のメディアもネットメディアに圧迫され、出版の世界までデジタル書籍化された。

 たしかに機械文明の急速な発達により、飛躍的な進歩をとげ量質ともに個人の能力をはるかに上まわり、知識の蓄積、伝達は多種多様な方法が可能になっている。その中で教科書までが正規の「教科書」としてデジタル化されようとしている。従来からの紙媒体の教科書の歴史を大きく塗り替えることになりはしないか。

 デジタル教科書の狙いは、黒板を電子化し、子供に情報の端末を持たせ、データを保存すれば家に帰ってからの復習にも便利で、動画や音声も飛び出し、子供たちの興味も引き出すと言うが、興味本位になりはしまいか。危惧の念を抱く。学びの積み重ねを記録に残せる紙の教科書の良さを、デジタル教科書に期待することはできない。

 ノートを取ることの意義は集中力を高めるとともに、漢字や知識を覚えるのにも役立つことだ。データをいつでも呼び出せるとなると、必死に頭に入れようとしなくなり、利便性だけに頼り切っていると、人間の脳が劣化してしまうのではないだろうか。

 確かに利便性に優れたデジタル化は怒濤の勢いで進んでいるが、教育は利便性や効率を求めるのではない。人間が人間を育てるシステムは簡単に確立できるものではなく、試行錯誤の中で、現実というフィルターを通して一歩一歩地道に時間をかけながら進めなければならないのだ。

 学校には、さまざまな立場の子供たちが集まって、お互いに話し合ったり意見をぶっつけ合い、ディスカッションする中で、自分には全くなかった発想やアイデアが出てくるのだ。しかし、それぞれ自分のデジタル教科書を見つめて、お互いに刺激し合わないでの教育は、人を豊かにするどころかどんどん貧弱で思考力や表現力に乏しい人間にしてしまうだろう。

 学校教育は、個々人の持っている能力を引き出し、個の発展を絶対的なものとし、それぞれが自分の可能性へと挑戦する力を身につけるべく行うもので、それには、教師が子供の心にふれ、問いかける中から学ぶことの意義を体得させるのであって、学校の存在意義は知識、技能の伝達機関だけでないということだ。

考えて創造性育む学問

 タブレット端末を使った教育は、正解のある課題に対しては、自己完結のかたちで答えを出すことができ、学習結果だけを求めるのにはつごうが良いが、想像力や創造力が封じ込められてしまう。

 文科省の「デジタル教科書」の位置づけを検討する会議では、「ICTの利用は不可欠」「教育のデジタル化は時代の趨勢…」など積極的に導入すべきとの意見が目立つようである。

 フランスの哲学者ブレーズ・パスカルは、「人間は考える葦(あし)である」と言っている。人間はすべての行動は考えることから出発し、人間だけが持っている技術も科学も学問もすべて考えることの上に成り立っている。

 あらためて教育とはなにかを徹底的に検討し、十分に構想を練り拙速をさけるべきである。教育での失敗は取り返すことができない。

 黒板と紙の教科書による「アナログ教育」が基本であることを忘れてはならない。