「生老病死」と対峙して
メンタルヘルスカウンセラー 根本 和雄
今、此処を只管に生きる
「病」は寿命を全うする養生
超高齢社会の昨今、改めて自分の生涯の来(こ)し方、行く末に思いを巡らしながら、避けて通ることのできない、人生の大事な生・老・病・死の問題を見詰め直してみたいと思う。人間には生があり、死がある。この生死を明らかにしていくことが人生だと思うのである。
生命誕生の不可思議さ
まず、人間の生命(いのち)の誕生ほど不可思議な摂理はないと思う。これを生物学的現象として考察すれば、70兆分の1の確率で生命が誕生するという。この事実を遺伝学者・木村資生(もとお)(ダーウィン・メダル賞受賞者)は、例えば1億円の宝くじが100万回連続して当たるのと同じくらいの確率であるという。この極めて厳粛な事実は、「一回性」にして「固有性」且(か)つ「個別的」という他はないのである。
それ故に、“ひとの生をうくるはかたく、やがて死すべきものの、いま生命あるはありがたし”(『法句経』〈ダンマ・パダ〉182)と思わずにはいられないのである。
次に「老いる」ことについて述べれば、“老いたる者の中には智慧(ちえ)あり、命の長い者には悟りがある”(旧約聖書ヨブ記12・12)とあるように「老いる」ことは、人生経験が豊かになり「結晶性能力」(キャッテルによる)としての判断力や知恵が豊かになることである。この「老い」の積み重ねで到達する状態が「老練」であり「老熟」の心境ではなかろうか。
然(しか)し身体的には加齢とともに機能低下は否めない事実である。それ故に、“諸々(もろもろ)激烈の事皆害有り”(「言志耋録」308)と儒者・佐藤一斎は述べて、ゆっくりと落ちついて、物事に拘(こだわ)らないで、穏やかに生活することを諭している。そして、大事なことは、この「老い」の刻(とき)を死の受容のための準備の成熟のプロセスと受け止めることではなかろうか(吉福伸逸著『生老病死の心理学』参照)。
さらに「病む」ことは、人生を深く思う刻ではないかと思う。“老いて人を知り、病んで人生を知る”という如(ごと)くに「病む」ことについて、山室軍平(日本救世軍創設者)はこう述べている。“病気は人に自分の弱いことを気づかせ、他人に対する思いやりを養わせる。また人生の短いことを知って永遠の生命を慕うようにする”(『病床の慰安』1984年)と。
また、国木田独歩は、その著『武蔵野』(1901年)で“生や素(もと)より好(よ)し、されど死も亦(また)悪(あ)しからず。疾症(しっしょう)は彼岸に到達する段階のみ、順序のみ”と述べ、さらに“病院は一種の小宇宙なり。世界なり。人は如何(いか)なる所にも宇宙を形造るものなり”という。(『病状録』1908年)その意味では「病は寿命を全うする養生」ではなかろうか。
さて、「死」とどう向き合い、どう受け止め、どう受容するかという問題を考えてみよう。これは、正しく人生最期の旅路ではなかろうか。“心体は、便(すなわ)ち是(こ)れ天体なり。一念の喜びは、景星慶雲なり。一念の怒りは、震雷暴雨なり。一念の慈しみは、和風甘露なり。一念の厳しさは、烈日秋霜なり。何者か少(か)き得ん。只(ただ)、随(したが)って起こり随って滅し、廓然(かくぜん)として碍(さわり無きを要せば、便ち太虚(たいきょ)と体(たい)を同じくす”(『菜根譚(さいこんたん)』前集171)。
即(すなわ)ち「人間の心は宇宙と同じ。喜びの心は瑞星(ずいせい)であり、目出度(めでた)い雲である。怒りの心は雷鳴であり、豪雨である。慈しみの心は長閑(のどか)な風、甘い露。厳しい心は烈(はげ)しい日、秋の霜。いずれもなくて済むものではない。起こったかと思えば消え、からりとして蟠(わだかま)りがなくなっていれば、それで広大無辺の宇宙と同体である」という。
このように、人間の心は宇宙の自然現象そのものであると『菜根譚』の著者・洪自誠は述べている。そこには、道教(荘子の気一元論)の「気」の思想の小宇宙としての人生観を汲(く)み取ることができると思う。
人間は故郷に帰る旅人
人間は150億年かけて、宇宙からこの世に生を受け、再び死を迎えて150億年かけて大自然の宇宙という故郷(ふるさと)へ帰るのではなかろうか。私たちは永い年月をかけて再び生まれた故郷へと帰る旅人(ホモ・ヴァトール)なのだと思う。従って、生かされて生きている尊い生命を〈今、此処(ここ)に当面の此事(このこと)を只管(ひたすら)〉に生きることではないかと思う。
おわりにI・カント(ドイツの哲学者)はこう語っている。“人間は短い生命を与えられた後、自らを構成する物質を星に返さなければならない”と。
(ねもと・かずお)