医師・中村哲の生き様を支えた思想
名寄市立大学教授 加藤 隆
内村鑑三の“教え”を実践
「勇ましい高尚な生涯」を歩む
中村哲という人物がいる。医師としてパキスタンでハンセン病治療に取り組み、その後は長年にわたってアフガニスタンで貧困に苦しむ人々の診療に当たってきた人である。当時、アフガニスタンは同時多発テロ事件に関係する組織の本拠地とみなされ、激しい空爆と地上攻撃、加えて、間断ない旱魃(かんばつ)によって豊かだった農地は年々砂漠化が続く。そのような日々の中での医療活動の困難さは我々の想像を超える。栄養失調と脱水で親に抱えられて中村のもとに運び込まれた子どもの多くは、その時点ですでに亡くなっていたと中村は回顧している。その中村哲がアフガニスタンで銃弾に倒れてから今月でちょうど1年になる。
人生の覚悟を決めた本
ところで、中村の生き様を支えていた精神的拠(よ)りどころは何だったのだろうか。エピソードと著書からヒントを探ってみたい。
こんなエピソードがある。講演会の時に、高校生の「中村先生のようになるには、どのような本を読んだらいいか」という質問に、興味深いことに内村鑑三の『後世への最大遺物』を薦めている。自身もキリスト者である中村にとって内村鑑三は大きな存在であり、その中でも、『後世への最大遺物』は人生の覚悟を決めた本ではなかっただろうか。
内村は我々が後世に何を遺(のこ)すことができるかを訴えかける。後世に遺すことができる第一はお金であるが、お金を稼ぐ才能の無い人は事業を遺せばいい。事業をなすための才能も地位もない人は思想、つまり、著述を遺せばいいと論を展開していく。しかし、これらは価値あることではあるが、誰もが遺せるものではないので「最大遺物」とはいえない。そして、内村は人間の真実を語るのである。誰もが後世に遺せる最大遺物とは「勇ましい高尚なる生涯である」と。
もう一つのエピソードは、アフガニスタンの医療現場には宮澤賢治の童話がたくさん並んでいて、子どもたちに読み聞かせもしていたことである。後年、宮澤賢治賞を受賞した時の喜びを語った言葉にも中村の人生観が滲(にじ)み出ている。
「この土地でなぜ20年も働いてきたのか。その原動力は何かと、しばしば人に尋ねられます。返答に窮したときに思い出すのは、賢治のセロ弾きのゴーシュです。チェロという、自分のやりたいことがあるのに次々と動物たちが現れて邪魔をする。仕方なく相手しているうちに、とうとう演奏会の日になってしまう。てっきり楽長に叱られると思ったら、意外にも賞賛を受ける。私の過去20年も同様でした」と回顧する。そして続けてアフガンでの日々を振り返る。
「幾年か過ぎ、様々な困難―日本では想像できぬ対立、異なる文化や風習、身の危険、時には日本側の無理解に遭遇し、幾度か現地を引き上げることを考えぬでもありませんでした。でも自分なきあと、目前のハンセン病患者や、旱魃にあえぐ人々はどうなるのかという現実を突きつけられると、どうしても去ることが出来ないのです」
これらのエピソードから二つのことをまとめたい。
一つは、「何をなしたか」ではなくて、「何をなそうとしたか」こそが最大遺物であると内村は伝えたかったように思う。『後世への最大遺物』のなかで、内村は勇ましい高尚な人生を歩んだ人として、マウント・ホリヨーク女学校の創設者、メリー・ライオンの生涯を挙げ、彼女の女学生たちに向けた言葉を紹介している。「他の人の行くことを嫌うところに行け。他の人の嫌がることをなせ」。まさに、メリー・ライオンの言葉こそ、中村をしてアフガンへと押し出す導火線になったのであり、彼もまた高尚な生涯を歩んだのである。
「天、共に在り」と確信
二つ目は、「天、共に在り」という言葉である。これは中村哲の著書のタイトルになる。彼の確信が練りこまれた言葉である。この言葉を目にするとき、「この世の中はけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである」(『後世への最大遺物』)という内村の精神を彷彿(ほうふつ)とさせ、中村もまたインマヌエルの確信を抱いていたことがわかる。我々の人生の礎は「永遠の否定」で成り立っているのか、そうではなく「永遠の肯定」で成り立っているのか、人間のアイデンティティーは常にこのことを問いかけて止(や)まない。
内村鑑三、宮澤賢治、そして、中村哲は、今もなお我々の魂に問いかけをしている気がする。