「平和」説く文氏 蛮行にも低姿勢
北の韓国公務員射殺
正恩氏の謝罪狙いは支援か
黄海の南北軍事境界線付近で漂流していた韓国海洋水産省の男性職員が北朝鮮軍に射殺された後、遺体がその場で焼かれた可能性が浮上し、韓国社会に衝撃が走っている。北朝鮮の蛮行に韓国世論は激昂しているが、対照的に文在寅大統領は事件をめぐり北朝鮮を批判せず、一貫して低姿勢だ。そこには残り任期1年半余りとなった文氏の思惑が反映しているとみられる。金正恩朝鮮労働党委員長は25日、韓国側に謝罪したが、経済支援を実現させる狙いもありそうだ。
(ソウル・上田勇実)
韓国軍が射殺事件について発表した翌日の25日、文氏は「国軍の日」の行事で演説したが、事件をめぐる北朝鮮批判は一切なかった。「国民の生命と安全を脅かすいかなる行為にも断固として対応する」と約束はしたが、前日に起きた惨事がその「行為」に当たるとは明言せず、代わりに「平和」という単語を連発した。
事件当時、男性が自ら北朝鮮への越境を望んで北朝鮮領海を漂流していたのか、あるいは何らかの事故だったのかはまだ不明だ。だが、いずれにせよ明らかに武装しているとは思えない、海上に漂流している人を北朝鮮は十分な取り調べもせずに「正体不明の不法侵入者」と決めつけ、わずか2発の空砲射撃を行った後に十数発の銃撃を浴びせた。しかも、その場で遺体を燃やした疑いまで浮上している。「いかなる犯罪集団もまねできない猟奇的な殺人」(韓国紙朝鮮日報)というほかない。
韓国世論も今回の事件にはかなり憤慨している。特に事件発覚後、文氏の対応が消極的で遅かったとされることや射殺直後に国連総会で流された録画メッセージで文氏が朝鮮半島の終戦宣言に言及したことなどが問題視されている。文氏のフェイスブックは「涙が出るほど怒りがこみあげてくる。あなたは本当に韓国大統領なのか」といった批判の書き込みであふれた。
それにもかかわらず軍統帥権者でもある文氏が北に対して歯切れが悪いのはなぜなのか。千英宇・元青瓦台(大統領府)外交安保首席はこう指摘する。
「文氏は残りの任期中に、朝鮮半島の平和定着を最大の政策目標に掲げ、それを功績として残そうと考えているようだ。成否は別にし、最後までそこに執着するだろう」
元韓国外務省幹部も「南北関係に一時的に影を落としかねない事件が起きたとは言え、既存の対北融和政策が変更される可能性は低い」と述べる。「国民の怒りを意識して今は強硬な姿勢を示す」が、北朝鮮へのアプローチは「北朝鮮の行動を北朝鮮の立場で理解し、合理化させようと最善を尽くす」のが基本であるため、やがては「国民が事件を忘れるのを待ってから、もとの対北融和政策に戻る」のだという。
一方、事件を引き起こした側の北朝鮮は25日、南北関係を担当する統一戦線部が青瓦台に通知文を送ってきた。「金正恩同志」が今回の事件で「文在寅大統領と南の同胞に大きな失望を抱かせ、非常に申し訳なく思う」という自分の気持ちを伝えてほしいと言ったという。最近、韓国に強硬路線一辺倒だった正恩氏の異例ともいえる謝罪だ。
これをめぐり「韓国内が険悪ムードになったため釈明したもので、南北関係が最悪の状態に陥るのは得策ではないと判断した」(北朝鮮問題専門家)との見方が出ている。経済難が続く中、韓国から支援を取り付けるため、水面下で行われているといわれる文政権との交渉をまとめたい正恩氏の本音が垣間見える。