米のユネスコ脱退声明

佐藤 唯行獨協大学教授 佐藤 唯行

事務局長は反米主義者
ロシアが依然影響力を保持

 10月12日、米トランプ政権はユネスコ(国連教育科学文化機構)からの脱退を声明した。脱退は2018年末に発効し、その後アメリカは正式加盟国ではなくオブザーバー国家の資格で関与してゆく方針だ。脱退理由について米国務省はユネスコによるイスラエルの国益を損なう数々の決定を指摘している。直接の引き金はイスラエルが占領するヨルダン川西岸地区に所在するヘブロン旧市街と同市近郊のユダヤの族長たちの墓についての処遇だった。ユネスコがイスラエルの反対を押し切ってパレスチナ自治区の世界遺産として登録を7月に認めてしまった一件である。

 この登録認定は古代ユダヤの遺跡を「パレスチナの文化遺産」にすり替えてしまうことで現代のユダヤ人国家と旧約聖書ゆかりの聖地との歴史的関係性を否定しようとする策謀に他ならなかった。イスラエルにとっては自分たちのメンツをつぶす許し難い暴挙だったわけだ。今回の声明に対しネタニヤフ首相は「勇気ある倫理的な決定だ」とたたえ、イスラエルも共に脱退する意向を表明した。またユネスコに対しては「歴史を保存する代わりに、曲解する不条理演劇の場に成り下がっている」と酷評した。

 今回の脱退声明はトランプ政権のイスラエルびいきを改めて浮き彫りにする形となった。

 その推進役がトランプの娘婿で大統領上級顧問のジャレッド・クシュナーだ。正統派ユダヤ教徒の大富豪クシュナー家はヨルダン川西岸のユダヤ人入植地に献金を続け、父の代からネタニヤフと親交を結ぶ在米右派シオニストの家柄なのだ。イスラエルの国益擁護に強い責務を抱くクシュナーを中心とする在米右派シオニストがトランプに働き掛け今回の声明へと導いたわけだ。

 声明は想定外の出来事ではなかった。米・ユネスコ間には長く深刻な軋轢(あつれき)の歴史が存在しているからだ。ユネスコは教育・文化機関の仮面を被った政治色の強い国際機関だ。冷戦期において、その教育プログラム運営を担った中心勢力は旧ソ連とその従属国だった。この体質に抗議して米レーガン政権は1984年に脱退し、英国もこれに追随した。その後、2002年、ブッシュ政権は復帰を決めた。背景にはイラク攻撃開始に当たり国際社会に対しアメリカへの協力を呼び掛けねばならず、率先して国際協調姿勢を示す必要があったからだ。ソ連崩壊後もその体質は変わらなかった。

 一例を挙げれば旧ソ連時代からロシアの従属国だったシリアに対する処遇だ。ユネスコはシリアの独裁者アサドをユネスコ人権委員会のメンバーから長きにわたり除名しようとしなかった。独裁政権に抗議するシリアの民衆が非暴力のデモを始めたことに対しアサドが弾圧を加えた後においてさえ、除名をためらったのである。

 ロシアの影響力に左右されやすいユネスコの体質を象徴する人物が現事務局長のイリナ・ボコバだ。ブルガリアの元外相だった彼女は東欧社会主義圏崩壊以前は筋金入りの共産主義者であった。かつて国連事務総長選に立候補した際にはロシアのプーチンの力を借りて票集めをした過去がある。彼女は紛れもない反米・反イスラエル主義者で11年パレスチナ自治政府のユネスコ正式加盟を実現させた策謀の中心人物であった。

 実は同年、パレスチナは国連に対し国家承認と正式加盟を求めていたのだが、拒否権を持つアメリカの反対等で実現できなかったのだ。そこでボコバとパレスチナ側が仕掛けた巧妙な一手が、国連加盟よりハードルが低いユネスコへの加盟申請であった。特定の加盟国に拒否権を与えぬユネスコでは総会ですんなりと承認されてしまったのだ。パレスチナ側の狙いはユネスコの正式加盟国となることで世界遺産に「自国の史跡」を登録することだった。そして実際パレスチナ側は獲得した資格を武器に本稿冒頭で紹介したようにイスラエルに揺さぶりを掛けてきたというわけだ。

 さて話は11年に戻るが、この時追い詰められたイスラエルに援護射撃を行ったのが親イスラエル派の米議員団だ。彼らはユネスコに圧力を行使できる武器があった。

 パレスチナを国家として処遇する国連機関への資金拠出を禁じる米歳出法の発動だ。同法はユダヤ・ロビーの意向を受けた米議員たちの努力で1990年に改正された法律だ。

 この法律により全予算の22%を分担するアメリカからの拠出金を凍結することでユネスコに打撃を与えたのだ。それから6年、拠出金の滞納分は今や5億5000万ドルに膨れ上がってしまった。今回トランプに働き掛け、脱退を声明させた在米親イスラエル派のもう一つの狙いだが、正式に脱退することでこの未納金をチャラにしてしまい、それによりボコバ率いるユネスコにさらなる打撃を与えようとしていると考えられるのだ。今回の騒動は決して対岸の火事ではない。わが国は国別拠出金分担比率で言えば第2位の9・7%を負担している。アメリカが正式脱退したことに伴い、わが国に対する負担要求はさらに強まることが予想されるからである。

(さとう・ただゆき)