米国の「潔癖性」見過ごすな

櫻田 淳東洋学園大学教授 櫻田 淳

不道徳な相手には峻厳
無頓着な北朝鮮・韓国の首脳

 米国を観察する際、その超大国や覇権国家としての表層に着目する人々は、米国の「富強」「権勢」あるいは「傲岸」を語りたがるかもしれないけれども、米国史の全体を真面目に見たことがある人々は、米国史を流れる「道徳性」や「潔癖性」を実感するであろう。ドナルド・J・トランプ(米国大統領)の登場は、彼における没価値的な政策展開を予感させるとはいえ、そうした米国政治の底流にある「道徳性」や「潔癖性」は変わるまい。

 目下、金正恩(北朝鮮労働党委員長)は、「核」や「ミサイル」の裏付けによって対米交渉に乗り出せると読んでいるかもしれない。実際、「朝日新聞」(6月24日付)が報じたところによれば、北朝鮮政府は米国政府筋に「中国を関与させずに米国と直接交渉をする」希望を伝えている。けれども、「核」や「ミサイル」の開発を通じて国際社会から度重なる批判を浴びている北朝鮮の姿勢は、特に米国から「道徳性」を疑わせるものであり、そのことによって北朝鮮が期待する対米交渉の実現の可能性は、かえって低くなっている。

 というのも、「道徳上、汚らわしい」と感じた相手に手を触れないという趣旨の「潔癖性」を示すのは、米国の特質であるからである。独立革命直後の欧州旧大陸に始まり、20世紀のロシア帝国、ドイツ帝国、ナチス・ドイツ、帝国・日本、ソビエト共産主義を経て、冷戦終結以後のサダム・フセイン体制やイスラミック・ステートに至るまで、米国は、その「道徳性」や「潔癖性」に照らして受け入れられないと判断した相手には誠に峻厳(しゅんげん)な態度を取ってきた。

 金正恩は「道徳上、汚らわしい」相手の一覧に自らの体制が入ろうとしていることに気付いていないのであろうか。折しも、北朝鮮に抑留されていた米国人学生が昏睡(こんすい)状態のままに帰国し、帰国直後に世を去った一件は、金正恩体制を「残虐な体制」と呼んだトランプの言葉に併せ、この傾向に拍車を掛けているのである。

 ところで、こうした北朝鮮の現状を前にして、文在寅(韓国大統領)は、高高度ミサイル防衛システム(THAAD)配備に象徴される対米協調の「具体的な裏付け」を披露することよりも、対朝融和の「機運」を盛り上げることに熱心であるようである。けれども、こうした文在寅の姿勢もまた、韓国を「米国が『道徳上、汚らわしい』と感じた相手」の立場に追い込むリスクを帯びている。文在寅が標榜(ひょうぼう)する「コリア・ファースト」路線の結果、韓国が「西側同盟ネットワーク」を担うのではなく、北朝鮮と「同類」であると印象付けられる可能性があるのである。

 振り返れば、戦前、帝国・日本が犯した最たる外交失敗として語られるのは、日独伊三国軍事同盟の締結である。この外交失敗には、同盟締結を主導した松岡洋右の二つの錯誤が作用していた。第一の錯誤は、松岡が若き日の滞米体験に呪縛(じゅばく)され、「米国と渡り合うためには、力を頼みにしなければならない」という認識を持ち続けたことにある。

 第二の錯誤は、その力の裏付けとして日独伊三国同盟の締結に走ることが、米国にどのように受け止められるかを顧慮していなかったことである。結論から言えば、帝国・日本は、特にナチス・ドイツと同盟を結んだことによって、ナチス・ドイツと同類の「道徳上、汚らわしい」と見なされるに至ったのである。極東や欧州で、それぞれ異なる戦争を闘っていたはずの日独両国が、半ば類似の国家として解釈され、戦後も「戦争の総括」に絡む敗戦国としての折々に比較されてきたのは、この同盟の「負債」に他ならない。

 ちなみに、昭和天皇は、後に公開された側近の日記の文面から推察する限りは、東京裁判でA級戦犯として裁かれた人々の中でも、特に松岡洋右や白鳥敏夫に対する反感を持っていた。松岡も白鳥も、「文官」なのであるけれども、昭和天皇が両人を気に入らなかったのは、彼らが「文官の分際をわきまえなかった」文官であったからであろう。加えて、「生粋の自由主義者」であった昭和天皇には、米国と渡り合うためにナチス・ドイツと提携するという松岡の論理それ自体が受け入れ難いものであったようである。

 果たして、日米開戦の日、松岡は、「三国同盟は僕一生の不覚であった」と慙愧(ざんき)の涙を流した。松岡は、若き日の滞米体験によって、「誰よりも米国を知っている」と自負した割には、米国の「道徳性」や「潔癖性」を認識できなかったのである。

 金正恩にとっても文在寅にとっても、帝国・日本は理念上の「仇敵」であろう。しかし、金正恩や文在寅が示す対米姿勢は、米国の「道徳性」や「潔癖性」への無頓着さにおいて、帝国・日本を破滅させた松岡洋右のものと似通っている。これは歴史の皮肉の一つであろう。

(さくらだ・じゅん)