社会主義者の米ユダヤ系議員
サンダース氏は3人目
民主党大統領予備選で健闘
米民主党の大統領選予備選で首位に立つクリントンを一時、窮地に追い込む勢いを見せ、現在でも第2位を占めているのがバーニー・サンダース上院議員だ。サンダースは「ウォール街の貪慾」と戦い続け、国民皆保険に近い社会保障実現のために尽力してきた政治家だ。その情熱は彼が貧しい移民家庭出身者として頻繁に味わった金銭的困窮の中で培われたようだ。彼は議院内で分属を希望する委員会に入るため、いわば方便として民主党に籍をおいてきたが、自身が述べるように「社会主義者」なのだ。
アメリカはブルジョア自由主義以外の政治思想に対する拒否反応が日本や西欧と比べ、格段に強い国だ。このことは新たに米市民権を取得しようとする移民がブルジョア自由主義に立脚した合衆国憲法に忠誠を誓うことを義務づけられている事実からも推察できよう。
こうしたお国柄で社会主義者が多くの有権者に支持され、国政で活躍すること自体、極めて異例なことなのだ。事実、社会主義者にして連邦議員に当選した者は、米史上、僅か3人にすぎない。サンダースはその3人目というわけだ。注目すべきはこの3人、いずれもユダヤ人なのだ。米政界のユダヤ人と言えば、イスラエルのネタニヤフ右派政権を海外から支えるタカ派のユダヤ・ロビーやネオコン(新保守主義者)というイメージが強い。けれど、その対極に位置する社会主義者の中にもユダヤ人は1世紀以上にもわたり、人材を輩出し続け、中心勢力であり続けたのだ。「クリントンを脅かしたサンダース」もそうしたユダヤ人社会主義者の系譜の中に位置づけられる人物といえよう。
次に米政界における知られざるユダヤ人社会主義者の系譜を辿ってみよう。
アメリカにおける社会主義思想は1世紀以上前、革命の本場、ロシアから移住して来たユダヤ移民によってもたらされたものだ。ロシアユダヤ人の間で社会主義がもてはやされた背景にはロシア皇帝政府による苛酷な反ユダヤ政策があった。これを打倒するための有効な手段として社会主義革命が選択されたからだ。
米社会党を1901年に設立した中心人物、モリス・ヒルキットもそうしたユダヤ移民のひとりであった。社会党中道派のヒルキットは1917年、ニューヨーク市長選に出馬、敗れはしたが第3位、22%の集票能力を示したのだ。
連邦議員に初当選したユダヤ系はウィスコンシン州の工業都市ミルウォーキーを地盤とした社会党右派のヴィクター・バーガーだ。
1910年に下院に初当選し、通算5期つとめている。地域に根差した労働組合の組織作りに才能を発揮したバーガーは革命路線を放棄し、漸進的社会改良を選んだ修正社会主義者と言って良い。より穏健なバーガーが議席を得て、より急進的なヒルキットが落選したと言うわけだ。米社会党所属のふたり目の連邦議員はポーランド出身の組合弁護士、メイヤー・ロンドンだ。1914年から20年の間、3度、下院に当選した。党員中に占めるユダヤ系の比率も高い。1920年代には社会党員の15%を占めていた。これは人口比5倍の割合だ。より急進的な米共産党の場合、ユダヤ系の存在感はさらに大きく、1930年代を通じ、党員の40%、党中央委員の3分の1を占めるほどであった。
在米ユダヤ人の間で「左翼離れ」が生じるのは1939年8月の独ソ不可侵条約の締結である。共産党こそヒトラーのナチスに対抗できる勢力と信じた挙げ句、入党した在米ユダヤ人たちは共産主義の本家、ソ連に裏切られたと感じたのだ。同じ頃、米社会党も外交的孤立主義を採り、ナチスとの対決に及び腰であった。社会党、共産党に裏切られたと感じた在米ユダヤ人は民主党に鞍替えし、以後、民主党左派を形成してゆくのである。以後、米国国内では社会党、共産党の勢力は二度と回復することはなかったのである。
古色蒼然たるマルクス主義の教条に固執する社会党、共産党を見限り、現実に見合った社会変革を目指そうとする運動が1960年代に出現したニューレフト(新左翼)運動だ。
その中心勢力が当時の若いユダヤ系の学生と知識人であった。彼らが取り組んだ代表的社会変革運動が公民権運動であり、ヴェトナム反戦運動であり、女性解放運動であった。
若き日のサンダースの出発点もここにあったといえよう。
さて、サンダースのような社会主義者が、今回、大統領予備選において予想外の健闘を続けている事実をどう読み解いたらよいのであろうか。それは民主党左派のオバマ政権7年間のあいだにアメリカ政治の座標軸が大きく左傾化していったことの証しといえまいか。
60年代、ニューレフト運動の洗礼を受けた、かつての若者世代が長い雌伏の時を経て、今、甦りのチャンスを見出したのである。
在米保守派にとり、看過できぬ状況変化といえよう。
(さとう・ただゆき)






